視点を変え、ASDから見た定型を分類してみる

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回はタイトルどおり、視点を変えてASD側から見た定型はどう映っているのか、ASDのパートナーの協力を得て、パートナーは定型をどう見ているのかを書いてみようと思います。ASDの人が全部が全部パートナーのように見えるとは言えませんが、定型側からのASDの特性はよく耳にしても、ASDの視点からの定型の『特性』はほとんど耳にしないので、興味深く、参考になるのではないでしょうか。もちろん、科学的、学術的なエビデンスはなく、ASDのパートナーの主観なので、飽くまでも参考です。

パートナーはASDの孤立型で、ADHDの重複はありません。そんなパートナーから見ると、定型の私はもちろん、社会を構成していると言われている定型(と言われるマジョリティー)は、『定型障害なんじゃないの?』と映るようです。

彼によると、この【定型障害】には、ASDやADHDにも特性からいろいろなタイプがあるように、いくつかに分類できると言います。実際“定型障害”などDSM(精神疾患の分類と診断)にはありませんが(笑)、今回はASDのパートナーが定型“障害”をどのように独自に分類し、見ているのかを聞き取ってみました。

定型障害:『発達障害』に対するアイロニーとして、パートナーが創作した造語。

まず、定型“障害”は4つのタイプに分類できるらしく、どの定型“障害”にも共通している特性が【共感を求める】ということだそうです。彼によると、この『共感を求める』定型が、思うように共感を得られない時、4つのタイプに分かれていくようです。その4つのタイプとは、

共感強要型

受容自立型

憎悪否定型

無関心型

だそうです。それでは、それぞれについて説明していきます。

1)共感強要型
過度に共感を求め、自分と同じように感じたり、思うことを求める傾向が高く、それが叶わなかった場合、「何でわかってくれないの?」とヒステリックに感情を爆発させる、あるいは溜め込む。カサンドラ症候群に陥りやすい。

パートナー曰く、キーワードは「何でわかってくれないの?」「なんで?なんで?」で、その言葉が出たら共感強要型だと分類するそうです。
2)受容自立型
共感強要型から派生し、ASDの認知や感じ方を尊重(多少の諦めも含む)するようになり、「彼(彼女)は自分とは違う認知や感じ方をするんだな」と受け止められるようになった状態(受容)。共感強要型を経由しなくても、最初から受容自立型というケースも稀にある。

パートナー曰く、キーワードは『尊重』のようで、共感強要型を経由して受容自立型へ移行できる人は極めて少ないそうです。
3)憎悪否定型
共感されず自分の気持ちに寄り添ってもらえないことで、鬱状態になるタイプではなく、相手をこき下ろし、人格からすべて否定し、憎しみを募らせていく。

パートナー曰く、カサンドラ症候群の交流会などで、相手がいないところで罵詈雑言を吐いている人がこれに該当するそうです。
4)無関心型
認知や感じ方の違いについて、最初のうちは共感を求めていても、それが叶わないとわかると、理解しようとすることも、擦り合わせようとすることもなく、どうでもよくなる(夫婦でいえば仮面夫婦、ただの給料を運ぶ人間ATMと見なす)。

パートナー曰く、単なる同居人、今風に言えばシェアハウス夫婦だそうです。

それを端的に表せば、下の図のようになるそうで、パートナーが整理しました。

定型から見たASDは、その独特の認知(からくる言動、行動)から、わけがわからないことだらけで“!?”の嵐ですが、同じようにASD側から見ても定型(と言われる人)の認知はわからないことだらけのようです。

発達障害だと確定診断をされていなくても、生きづらさを抱えているグレーゾーンの人は多くいます。

保険請求上、仕方ないこととはいえ(診断名がないとレセプト請求できませんから)、“〇〇障害”と名が付くと、『普通の人より劣っている』『普通の人とは違う』と思いがちです。

“普通”って一体何なのでしょうか?

今回、敢えて“定型障害”という表現を使いましたが、この“障害”という単語は、良くも悪くも一人歩きしやすいもので、時として当事者や当事者の家族に暗い影を落とす重たい響きなのだと感じ、改めて、普段当たり前に使っている【普通】って、何を基準で言っているのだろうか?と深く考えるきっかけにもなりました。

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アスペルガーの持つこだわり〜パートナーを通して考える【後篇】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前篇では私のパートナーにおけるアスペルガーのこだわりを、私の視点で書いてみましたが、後篇ではアスペルガーであるパートナーから見た視点で、定型と言われる人々や、定型を基準に構成されている社会がどう見えているのか、『アスペルガー視点による定型』を聞き取ってみたので書いてみたいと思います。定型の人には耳が痛いことや辛辣な言葉もあると思います(笑)

——幼少期を振り返って、“何か違う”“なぜ、みんなそうなんだろう”と思ったことは?

幼少期より極度な人見知りだった。よく覚えているのは幼稚園児の頃は家以外のトイレには入れなかった。それは『行きたいけど行けない』ではなく、家のトイレ以外を『汚い』と感じていて強い抵抗感があり、我慢していた。幼稚園であれ学校であれ、当時の公衆トイレは和式が主流で、使い方に不慣れだったこともある。公衆トイレには和式・洋式問わず今でも抵抗感はあり、家まで我慢できるなら極力我慢している。
また、一人遊びが好きで(例えばミニカー。ここでも自分なりの規則性があり、無意識にそれに則って)いつも一人で遊んでいたが、母からは「友達と遊んできなさい」と言われて苦痛だったことを覚えている。親しい一部の人以外と関わるのが嫌だった。今思えば極度な人見知りも影響していたのかもしれない。中学生になるまで、俗に言う『おとなしい子供』で母が友達ができるか心配したほどだった。

——他者に言われて、頭ではわかるけど、自分にはどうにもこうにも納得できなかったことは?

日本人が重んじる協調性や同調圧力には納得がいかないことが多い。『察しろ文化』が苦手。見返りや貸し借りと感じることがある。組織においては、雑用などは新人や下の者がやるべき、ということが当然とされていることも納得がいかない。基本的には『気づいた人がやればいい』と思っている。それを頭ごなしに新人や下の者の役目、と言われたり強制されると『なんで?』と心の中で合理的理由を求めてしまう。

——社会に出るとさまざまな人と関わることが増えるが、どういった場面や部分で違和感があったり、理不尽と感じるか?

さっき言った、新人や下の者はこうあるべき、こうすべき、みたいなことは今でも理不尽だと感じている。大体において合理的理由を言ってくれることは、まずない。言ってくれて、その理由に納得しさえすれば素直に聞き入れられることもあるのに、言われないことのほうが多いから、理不尽と感じることも多くなる。なぜ合理的理由を言わないのか、いまだにわからない。それでも仕方なくやっていると、やる気がないだの、ちゃんとやれだのと文句を言われる。まったく理不尽だ。定型の思い上がりを感じるね(笑)

——他者と関わりを持つ中で、納得がいかないところはどんなライフハックを身につけてきたか?

ライフハックと言えるのかわからないが、就職してからは飲みに行くことで、自分一人で消化しづらい感情をリセットしていた。ただチェーン店の居酒屋で飲むことは絶対になかった。そういう所では消化どころか、逆に落ち込んだり怒りが募ってくるから、一人で行っても話せる飲み屋にこだわっていた。手っとり早いのはキャバクラとかクラブとか、オネーちゃんがいる店ね(笑)同時にバーを探していた。行きつけになれば一人で行ってもバーテンと話せるし、家でもない職場でもない第三の居場所になるかな、と思って。ライフハックという言葉は知らなかったから、当時はいい意味での『逃げ場所』という認識だった。今でもそうだが、自分にとってそういう飲み屋=再生ドック、と思っており、気持ちの重み、澱を軽くする場所になっている。

——定型と言われる人たちのどこが面倒、必要ないだろうと思うか?

言葉でちゃんと言わないくせに、ヘンな協調性を求めたり、気持ちにしろ、行動にしろ、こういうものだ、と勝手に決めつけ、無意識に押し付けてくるところがメチャクチャ面倒で迷惑。『オマエの価値観を押し付けるな』と思う。具体的には上手く言えないが、一度相手と根本的に文化が違うと思ってしまうと、話し合っても無駄だと思っている。それから、合理的ではないことを、合理的ではないとわかっていながら『そういうもんだから』と合理的にしないところは、非難を承知で、もはや『バカか』と思ってしまうね。
また、関心がない相手には聞かれたことには答えるけど、オレからは聞き返すことはないね。例えば、相手に「ご出身はどちらですか?」と聞かれれば「東京です」と答えても、「〇〇さんはどちらですか?」と聞き返さない。だから会話が続きにくい(笑)。場面によっては意識して聞き返すようにしているが、そういう時の後は尋常ではないぐらい疲れるね。『聞き返してほしいんだろうな』『聞き返したほうがいいんだろな』と思うことがもう面倒だし、そもそもこっちは答えたのだから、聞き返されなくても言え、と思う(笑)

——今まで他者に共通して何度か言われてきたこと、思い返すことはあるか?

何を考えているかわからない、地雷がわからない、ミステリアス、親からは難しい子、と言われている。急な予定変更や予定どおりにしてくれないことには怒りを覚える。定型の人もそうかもしれないが、筋が通らないことも嫌だし、そういう人は絶対に信用しない。ただちょっと違うのは、人を『性悪説』で見ているところが定型よりも徹底しているかもね。大体において言行一致であるかどうかをシビアに見ている。

——人間関係、恋愛遍歴の中で、今思うとアスペルガー特性が起因で衝突、スレ違いがあったエピソードは?

妹の披露宴の時。最初に記念撮影をするということで、予定の時間より10分前に会場に着いたのに、ホテルスタッフに「皆さんもう雛壇に整列されているのでお急ぎください」と到着早々言われ、反射的にブチギレた(笑)オレは遅刻していないのに、あたかも遅刻したかのような言い様だったから。しばらくして聞いたが、あの時はブチギレという言葉では済まない、それとは種類の違う、恐怖を抱く凄まじい激怒だったようだ。
それから、恋愛遍歴での衝突はない。アスペルガー特性がどうのこうのという域までいかないうちに終わってしまうか、終わらせてきたから。だから今までの恋人はオレがアスペルガーであったことは知らないと思う。オレ自身ここ2〜3年で自分がアスペルガーだと自覚したんだから(笑)
また、過去の失敗経験から『前は〇〇だったから』ということで、自分の中に“人間行動パターン”を持つ傾向がある。過去の失敗経験に似た場面だと思ったら徹底的に避けるし、そういう人がいたら必要最低限しか口をきかない、目も合わせないね。

——定型に対して思うことは?

もっとドライでいいと思う。美談と言われる話は辟易する。『愛は地球を救う』というテレビ番組、あれは鬱陶しいよね。あと『みんなと一緒』思考がまったくわからない。みんなと同じでないと不安になるという心理が理解できない。新卒一括採用で必死に就職活動している学生は滑稽にしか見えない。一社からも内定を得られず自殺する学生もいるらしいが、へぇー、ぐらいしか感じない。長い物に巻かれなければ上手く生きていけないのが定型社会だとしたら、オレみたいなアスペルガーはある意味最初からアウトロー、生きにくいわけだよね。だけど、そういう定型社会はもう限界に来ていると思うな。ダイバーシティとか多様性とか、ある部分で既存の定型社会では収まらない価値観が出てきているから。定型連中はそれに気づいて多様性とかダイバーシティとか言っているのか知らないけど、多分そんなことは考えずに流行りに乗って言ってるだけだろうな、実際、現場は多様性やダイバーシティなんて程遠いし、絵に描いた餅にしかなってないから。そもそも人は多種多様なんだから、今さら何言っちゃってるの?と思う・・・あのさぁ、定型ってバカなの?

——屈託のない笑顔で「定型ってバカなの?」という問いに思わず噴いてしまいました。決して彼は自分は頭がいいという意味で言っているのではなく、子供がするような、無垢な質問という感じでしょうか、車椅子の人を見て「あの人はなんで足がないの?」みたいな感じですかね(笑)

——私は(ド)定型だけど、定型に対して何か意識していることは?

そうだな、共感することかな。共感ポイントを見つけて意識的に共感するようにしている。腹の中では違うことを思っていても言葉や文字では“この場合、こう言った(書いた)ほうがいいんだろうな”と考え、パターン化している。(定型である)君を見ていて『もっと(言いたいことを強く)言えばいいのになぁ、ユルいなぁ』と思うことはある。オレから見て、そういうところは【定型障害】という定型ならではの障害なんじゃないか、と思ってしまう。あえて定型障害と表現すると、定型は一般的に「察することが善」を無条件で求め、当然のことと考えている、「“みんな”はこうしている」を当たり前に求め、それをやらない(できない)と調和を乱す異分子と受け取る傾向がある気がする。疑問があっても「みんなそうしている」という文系的な答えで合理的な答えが返ってこないのは【定型障害】の典型例だと思う。こういう中で生きていると、定型善、発達障害悪という風潮に「定型ナニ様?」と感じるね。そういうところ、定型も振り返って改善したほうがいいよ。自分達を障害と思ったことがないだろ、だからオレに【定型障害】とか言われちゃうんだよ(笑)

【定型障害】という造語には目からウロコというか、そういう視点はなかったなと思って、無意識に定型を基準に物事を考えていた自分にハッとしました。彼が「定型ナニ様?」と言うのもわかります。定型のほうがマジョリティな社会だから定型側を基準に考えがちですが、それ自体傲りで反省すべき点かもしれません。

パートナーはアスペルガーだから生きにくいと感じつつも、定型に合わせようとはせず(合わせる気がない)、場合によってはぶつかることも厭わない姿勢がここまで言えるのかな、とも思いました。どこか正々堂々としているというか、上手く言えませんが、アスペルガーだからといって卑屈ではないことは確かです。もし「どうしてそういうふうにいられるの?」と聞いたら、

「なんで定型に合わせる必要があるの?」

と、逆に聞いてくる姿が目に浮かびます(笑)

今月15日土曜日は夏季休業のため、コラムはお休みします。お盆明けは20日木曜日から掲載します。

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アスペルガーの持つこだわり〜パートナーを通して考える【前篇】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

以前このコラムでもパートナーがアスペルガーであることや、それが起因で数々の修羅場など、パートナーからも当時を振り返ってもらいながら聞き取りをしたことを連載しました。

パートナーはASD<アスペルガー疑惑編> パートナーはASD<カサンドラ愛情剥奪症候群編> パートナーはASD<アスペルガー受容編>

今回は、見た目にはまったくわからない彼のこだわりの部分について、少しお話しようと思います。

アスペルガーやADHD、LDといった発達障害は見た目にわかる障害ではありません。

私自身、名称に『障害』とついていても

独特の認知を持ち、得手不得手のバラツキが大きく、定型と言われる人たちとは少し違う脳の作りをした個性豊かな人たち。時として本人や周りに困り感が表れ、私生活や社会生活に影響が出てしまう人たち。

という理解をしています。

比較的わかりやすい特徴が表れ、気付かれやすいADHDとは違い、パートナーはADHD要素を1ミリも持っていない、純粋アスペルガー(笑)のようで、踏み込んだ関係にならなければわからないことが多くありました。

実際に、私のようにパートナーがアスペルガーという人もいると思いますが、付き合い始めはわからないか、小さな違和感程度だったはずです。

コミュニケーション、想像力、社会性に障害を持つと言われるアスペルガーですが、その特徴の表れ方は濃淡だけでなく千差万別で、こだわるポイントもその人ならではの個性的なこだわり方です。見た目からはまったく気付かなかったのですが、彼はかなりの鉄ちゃん(鉄道マニア)で、私が勝手に思い描いていた鉄ちゃんイメージを覆してくれました。

鉄道好きのアスペルガーの男性は本当に多く、電車そのものに留まらず時刻表も大好きです。車体にある形式記号(モハ←モーターがある車両。厳密には車両重量と車両用途を意味するらしい)など、とても熱く説明してくれるので私も詳しくなりました(笑)

電車も何でもよいわけではないようで、細かいこだわりがそこここに見られます。どこにどんなこだわりポイントがあるのかを知ることで、より一層理解を深めることができました。

食(内容だけでなく)に対するこだわりもありますが、数字や規則性へのこだわりがはるかに強いようです。

SNSへの投稿は一年の始めに彼なりの法則に則り、日付、曜日から投稿する時間を何時何分何秒まで決め、投稿前はパソコンに張り付き、時間を気にしています。さらに投稿する日も3日おきと決めており、偶数分と奇数分を交互に投稿しています。

記憶力の優れた人ですが、頭で記憶しておくだけではなく、パソコンに“〇〇の投稿は何日、何曜日で時間は△△、◇◇の投稿日は〜”と一覧にしてあり、月に一度変更するカバー画像の変更日時も決めています。

「マヨネーズはキューピーがいいな、なければ味の素でも・・・まっいいか」程度のこだわりしか持たない私からすると、そのマメさ細かさに驚きを隠せません。

私は彼の数字や時間、予定や食へのこだわりをできる限り尊重しています。こだわりもなく、臨機応変な切り替えも苦ではない私は、パートナーに対し無理をしたり我慢しているわけではなく、一緒にいることが彼の負担にならないように、という思いからくるものです。

自分のペースで過ごす一人の時間が絶対に必要な彼を深追い(笑)しませんし、なぜかご機嫌ナナメな時はひたすらそっとしておきます(放置?)。認知も消化の仕方やスピードも違うので、彼のペースを第一に考えます。

話をしていて認知の違いを感じる場面も多くありますが、「私は〇〇と感じるし考えるけど、彼は違うのか、そうかそれは実に興味深い」で、よほどのことがなければ問題にもなりません。

今は衝突することはありませんが、アスペルガー対応がわからなかった時はとにかく疑問だらけで、会えば話せば見事に地雷を踏みまくりました(笑)彼のこだわりが強く表れる“食”について面白いエピソードがあります。

一日一食(しっかり食べるのは昼食だけ)の彼が昼食にかける情熱は並大抵ではなく、大概は「今日は〇〇を食べる!」と決めて出かけますが、何となく出かけ、気に入るお店を探すこともあります。

たまたま彼の気に入るお店があればいいのですが、歩き回ってもなかなか見つからないこともあり、私は“とりあえず”を提案してみるのですが、瞬く間に却下されます(笑)

まず店構えが気に入らなければ、どんなにオナカが空いていても絶対に入りません。こだわりに妥協しない(できない?)アスペルガーらしい部分ですね。

普段歩くことは構わないのですが、如何せんオナカが減っている中での『まずは店構えから』なので、最初はかなり狼狽えました。アスペルガーでなければ、ここまで彼女を気遣い(オナカ減ってるだろうなぁ)適当なところで手を打つと思うのですが、彼は「ハルはどこか他で食べてもいいよ(自分はまだ探すから)」です(笑)

私はオナカが空いて不機嫌になることはありませんが、最初は「〇〇食べたいなー」だったものが「ココイチでもいいや、いや、コンビニでも構わない」と、どうでもよくなってきます。それを伝えると彼は

ハルは生き方が雑だな〜。

と言われます。あまり言われることがないと思います。

生き方が雑。

細かい、生真面目と言われることはあっても、雑と言われたのは生まれて初めてで、しかも【生き方が雑】ですから、「生き方が雑って、ナニ〜!?」と見事にツボにはまりました。

野生(アスペルガー?)の勘なのか、店構えを気に入り「ココだ!」と彼が選んだお店は間違いなく美味しいので、それからはお店選びは丸投げでお願いしています。

こだわりが少ない(ない)側が、こだわりが強いほうに寄り添っていくほうが上手くいくので、それを「譲った」「我慢した」「合わせてやった」と捉えるタイプの人だと絶対にうまくいかないでしょう。

させられた、と感じると、人は積み重なった時に不満を持ち、他責傾向が高くなるものです。

次回は発達障害という単語に対し嫌味も込めて【定型障害】という表現をするパートナーが、アスペルガー視点から定型と言われる人たちをどう見て感じているのかを、本人に聞き取りした内容をまとめてお話したいと思います。

定型に対して嫌味も含まれ歯に衣着せぬ本音トークだけに、辛辣な表現が予想されますが・・・(笑)定型から見たアスペルガーのブログや書籍はあっても、アスペルガーから見た定型についてのことを聞く機会は少ないので貴重でもあります。

ユニークなこだわりや独特の認知スタイル、感情コントロールが苦手で個性的な世界観を持つアスペルガー。アスペルガーのパートナーから、定型がマジョリティとされる社会や人々はどう見えているのでしょうか。

今月15日土曜日は夏季休業のため、コラムはお休みします。お盆明けは20日木曜日から掲載します。

<運営会社:Jiyuuku Inc.