心理学における想像力の弱さ/欠如とは

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

イマジネーションと言われても、妄想と想像の違いすらよくわかっていない困った人もいるので、改めて想像力を認知と絡めてお話ししたいと思います。

人が考える“想像”とは「もし免許取得したら〇〇なクルマに乗りたいな」「志望校に入ったらサークルに入って・・・」や「子供が生まれたら・・・」「結婚式は〇〇でドレスはこんなのがいいな」「誕生日プレゼント、何にしようかな」のように、自分軸で考えることが多いと思います。

心理を生業としている私たちが見ている想像力は少し違います。

私たちの見ている想像力の弱さや欠如とは、どれだけ先の見通しを立てられるのか?や、他者の気持ちをおしはかったり考えられるのか?という自分軸とは異なった意味になります。

誰でも「赤信号で渡るのは危険だ(今の青信号でも危険ですが)」と知っています。では、何故赤信号で渡るのは危険なのでしょうか?もちろん青信号で走行してきた車やバイクに衝突する可能性がある、ですが、それは結果、怪我をしたり最悪亡くなる可能性もある(危険)だからですよね。

一方、表面的な怪我(痛み)は比較的想像しやすくても、これが“心”が怪我をする、になると想像力の弱さや欠如が目立つようになります。

親しみを込めたつもりの「ホント、バカだよな」や「オマエは何もできないな」は心が切り刻まれないまでも擦り傷を負わせます。「ウザい!」も同じです。

勝手に親しみを込めたつもりで無神経な言葉を吐く人は、ぶつけられた人の心が擦り傷を負ってヒリヒリすることが想像できない想像力が足りないか、欠如した人ということになります。認知機能の弱さや認知の歪み、また知的ボーダーでもこの“想像力の弱さ(欠如)”が表れているケースがあります。

待ち合わせに毎回ビミョーに遅れてきて「謝ったから大丈夫」と思っている人は「私のために時間を作ってくれた」という相手への感謝がなく、「私だったら気にならないからきっと許してもらえる」と考えてしまう人で、それも自分軸でしか考えられていません。会いたいからこそ、自分の時間をやり繰りして待ち合わせをして会おうとします。体調や交通機関の遅延などどうしようもない時は仕方ありませんし、そこはお互いさまですが。

〇〇すること(しないこと)により、自分がどうなるのか?は想像しやすくても、他者がどのような影響を受けるのか?

他者軸の想像力が備わっていないと、他者と摩擦を起こしやすくなりますし、ただの無神経で失礼な人、人の気持ちがわからない人と言われることになります。

無人島で一人暮らしならば無問題ですけど(笑)

想像力の豊かさ、自分に当てはめて考えてみましょう。

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柔軟性のないガチガチな正義を振り回す人

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

突然ですが読者の皆さんは“正義感”と言われるものの根幹にあるものは何か、ご存知でしょうか。

それは良くも悪くも、長く生きてきた中で培われた“価値観”に他なりません。

価値観は人の数だけ存在します。

コロナが本格的に流行り始めた時、『マスク警察』という言葉が流行りました。そのベースにあるのは『感染したくなければマスクをつける』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける』ですが、マスク警察にかかると『感染したくなければマスクをつける“べき”』『人に感染させないように(人を不安不快にしないように)マスクをつける“べき”』と、“べき”思考が先歩きし“べき”に縛られてしまいます。

酷い皮膚炎やアレルギーなどで本当はマスクを付けたくても付けられない人もいますし、周囲に誰もいなくて人とすれ違わない場所だから苦しくてたまたま一時的に外していたという場合もあります。それぞれ人には事情がある(かもしれない/場合がある)ということですが、物事を一方向からしか見ていないと「マスクしてない、けしからん!」になるわけです。

混んだ店内やバス、電車内でマスク未着用で注意を受けるならまだしも、誰もいないことを確認した上で“たまたま”一時的に顎マスクにしていた時に、いないと思っていたトイレから人が出てきて「なぜマスクをしないんだ?(マスクを付けるべきだろう!)」と突然絡まれたら・・・

そこにいるのはたまたますれ違った二人だけ、話さなければ飛沫も飛ばないのですから、サッと通り過ぎればいいだけのこと。いちいち呼び止めてマスク未着用を咎めるほうが感染リスクを上げ、言い合いになってしまうかもしれない(それ以上かもしれません)トラブルになる可能性を上げているように思えます。

実際に大阪で事件が起きています。報道によると無人だった路地をマスクをせずに歩いていた男性が、たまたま現れた高齢男性にいきなり「マスクしろ」と言われ逆上し、高齢男性に怪我を負わせた、という事件です。もちろん怪我をさせた男性は逮捕されましたが、マスクをしろと言った高齢男性は怪我が元で、下半身不随になり車椅子生活になってしまったそうです。その高齢男性は「何も言わなければよかった」とテレビの取材に答えていました。

“べき”思考は自分を縛り付け、息苦しく生きづらくなってしまうだけでなく、他者にその思考が向いた時には思わぬトラブルを引き起こします。大阪の事件のように下半身不随という後悔しても後悔し切れない事態になりかねません。

「(バスや電車の)車内でお年寄りに席を譲る“べき”」→自分一人がその考えで行動するのはまったく問題ありません。でも、お年寄りでなく元気に見えて座っていても持病があり、立っているのが辛い人だったり、まだお腹は目立たなくても妊婦さんかもしれない、辛い治療をした病院帰りの人かもしれません。内部疾患は身体の不自由とは違い、パッと見はわかりません。これも、“わからなくても人にはそれぞれ事情があるかもしれない”ことなのです。

この「自分はこう思うし考えているけど、他者には他者の考えがあるし、自分にはわからない事情があるのかもしれない」と考えること、それは【想像力】です。気持ちの余裕のなさも多少は関係しますが、白黒思考と想像力が乏しい結果が自分の正義を他者に押し付け、「自分は間違ってない!」と身勝手な正義を振りかざす〇〇警察になってしまうのだろうと思っています。

〇〇警察でなくても周囲にいませんか?

「子育てはこうあるべき」

「仕事はこうするべき」

などなど、やたら“べき思考”で考えを押し付けてくるような人たち。

「それいいね、他にもこんなやり方があるよ」ならカチンとこないものを、「それよりこのやり方でやるべきだって」と、いちいちマイルドに否定してわざわざカチンカチンとくる言い方をする人。

単に言い方のクセなのか、物事を自分本位に一方向からしか見られない人なのか、これだけはわかりませんが、相手をするのはなかなか面倒で疲れるのは確かですよね。

【行き過ぎた正義】これは他者都合や事情をまったく考えていない、正義の名のもとに自分都合でのみ人を傷つける、もはや凶器です。

振りかざす正義感同様、意思疎通に便利な言葉というツールを、できれば凶器として使わないようにしていきたいものです。

見えない価値観、見えない他者の都合や事情。見えないけれど、確かに存在するものだと頭の隅に入れておくだけで変わるのではないでしょうか。

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リモートワークで在宅時間が増えた結果、ペットに悲劇が起きている事実

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

リモートワークが増えたことで在宅時間も増え、「この機会にペットも飼おう」と考える人が増えました。生き物は生活に潤いを与えてくれますが、今の生活にプラスして手間もお金も掛かります。

リモートから通常勤務になった時、あるいはライフステージの変化まで見越して飼育をスタートしている人がどれほどいるのでしょうか。

生き物ですから怪我をしたり病気にもなりますし、いつまでも愛くるしい仔猫や仔犬のままではなく、当たり前に老いもします。人の思い通りにもなりません。←うるさいから夜は鳴かないで、抜け毛は掃除が大変だから毛が抜けない犬(猫)がいいなど。

  • 小さい時は可愛かったけど、大きくなったらそうでもない。
  • 散歩が面倒になった。
  • 毛が抜ける散らかる。
  • カーペットを汚した。
  • 粗相が多い。
  • 臭い。
  • 大きくなったら可愛くない。
  • 鳴き声がうるさい、世話が面倒。
  • 旅行に行けない。
  • なつかない。

などなど。

自ら里親を探す人はまだいいほうで、捨てたり保健所に持ち込む人(人でなしと呼ばせてもらいます)が後を絶ちません。避妊去勢をせず飼育し、頭数が増えたから捨てる(CMにもありますが「誰か優しい人に拾ってもらってね」は犯罪です<動物愛護法違反>)。以前にも書きましたが、生き物は人の手で飼われ始めた時から人に依存してしか生きていく術を失います。

この意味を「野良猫として生きていけるじゃん」と思う人は、行間の読めない残念な頭の持ち主か想像力が欠如している(あるいは想像力がない)人です。

ペットを飼うのは私たち<人間だけ>です。人間のエゴでしかない“癒しのためにペットを飼う”という行為に“動物たちを付き合わせている”だけに過ぎません。

我が家にも猫が4匹いますが、猫たちは多頭崩壊現場からレスキューされた保護猫や、保健所に持ち込まれる寸前だったブリーダー飼育放棄猫で可愛い盛りの仔猫からではありません。

酷い扱いを受けていて、我が家に来た時は人間不信の塊で常にビクビクしていた大人猫。迎えるからには二度と不幸な目に遭わせず、終生飼育の覚悟で迎えています。換毛期にはどんなにブラッシングしても部屋は大変なことになるので、ブラッシング→コロコロを日に何度も繰り返します。

洗濯物にも寝具にもコロコロ、出かける前には親子でコロコロ、嫌がらないので猫たちもコロコロ。一般家庭でのコロコロ消費量は日本一かもしれません(笑)

ペットには私たちと同じ“いのち”があります。人間のように複雑に細分化した感情はありませんが、【痛い、怖い、苦しい、寂しい、嬉しい】感覚や感情はあります。愛情を持ち、世話をし、共に生活を送っていると信頼関係を築けますし、なついてもくれますが、嫌がることをしたり世話を怠けると嫌がらせ(?)をすることもありますし、なついてくれません。

最期まで『いのち』に責任を持ち、飼い続ける覚悟がなければペットなど迎えるべきではないと考えます。犬や猫は長い場合15〜20年は生きますから、子供一人を育てる時間と同等な飼育期間が発生します。瞬間的な可愛いという感情だけでは、到底最期まで飼い続けることはできない時間ではないでしょうか。その時間は飼い主自身にとってもいろいろなことが起こり、ライフステージも十分変わり得る時間です。それでも飼い続けていく、という覚悟と責任が要求されることをよくよく考えてほしいと思うのです。

私のパートナーも猫を3匹飼っていますが、3匹とも飼い始めて16年になるそうです。私が飼っている猫たちよりも活発で、部屋の壁に登ったり爪研ぎをするので、壁紙はボロボロです。それでもパートナーは、元気な証だ、猫を飼うとはそういうことだ、とサラッと言います。

そういう覚悟と責任に自信が持てないなら、苔やマリモにしておくか、今流行りのペット型ロボットにしておくことをオススメします。

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