他者の気遣いや無意識の厚意に感謝するという小さな当たり前の姿勢

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

感謝は強制されるものではなく内側から出る自発的な感情ですから、誰に対してもどんな時にも周りに平身低頭感謝しまくりましょう・・・なんてことはこれっぽっちも思いません。

ですが、他者の“厚意”からくる行動を当たり前に思い、感謝しないどころか自分が想像(勝手に期待?)していたとおりに他者が行動を起こさないと不満に感じ、文句を垂れたり酷いとぶちギレる人が増えたように思います。余裕の無さやイライラしやすいのはコロナのせいもあるのかもしれませんが、他者に攻撃的な気持ちを持ちやすいのはまたちょっと違う気がします。

例えば、余程いじわるな人でなければ、自分が先に乗り込んだエレベーターに後から人が乗ろうといているのにわざわざ【閉】ボタンを連打して扉に挟もうとはしないと思います(笑)でも『あ、乗ろうとしているんだな』と【開】ボタンを押すのは頼まれたわけでもなくても、挟まれないようにという“気遣い”“厚意”からくる行動です。

「乗ろうとしているんだから【開】ボタンを押しておくのは当たり前でしょ!」と考えたアナタは、それは「〜すべき」思考が混じるちょっと偏った考え方です。確かに扉を開けておくのはマナーかもしれませんが、やってもらって当たり前、やるべきこと、という決まり事ではありませんよね。

私でも自分が先に乗り込んだ時に階数ボタンの前に立っていれば当然【開】ボタンを押して待っていますし、奥に階数ボタンがないエレベーターでは「何階ですか?」と尋ねることもあります。毎回ではありませんが。

自分が逆の立場なら「3階お願いします/押してもらえますか?」とお願いします。恐らく多くの人はそうしているだろうと思います。

ここで偏った自分本位な考えを持つ人は、自分から「○階お願いします」と意思表示をしなくても「フツー何階に行くか聞くもんでしょ、階数ボタンに近いんだし」と考えます。そのような考えを持つ心理の共通として、〇〇すべき、という行き過ぎた白黒思考だったり、他者の価値観や思考を認めない自他境界の曖昧な人に多く見られるようです。あなたとまったく同じ考えや感情を持つ人は“いない”と考えましょう。

たまたま同じエレベーターに乗り合わせただけの真っ赤な他者で、明らかなエレベーター係(今時いる方が少ない)でもない一般人に、階数ボタンの前にいるというだけで、何故そこまで他者を気遣うことを“当たり前に求めるのか”です。飽くまでも任意の行為を無意識に義務の行為と勘違いしているか、日頃から他者を見下している愚か者です。

「ありがとうございます。」「助かります。」

毎回いちいち口にしなくていい場面でも、この気持ちは大切にしたいものです。

常々『ありがとう』『ごめんなさい』は人間関係をまろやかにする魔法の言葉だと思っていますが、『ありがとう』と言われて嫌な気持ちになる人はまずいません。

「(私のために)ありがとう」と伝えること、ありがとうと口に出さないまでも、ありがとうの気持ちを持つこと。相手との距離が近くなればなるほど忘れがちなことですが、何より大切なことではないでしょうか。

思っているだけでは伝わりません。どんなことも「言わなくてもわかる(わかってる)だろう」という考えは改めて、ニッコリ「ありがとう!」。

立場に関係なく気持ちいい人間関係のコツかもしれませんね。

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障害を免罪符にしてはいけない

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

重たいタイトルですが、そのままです。

(発達)障害を持つ子供の親として日常生活を送る中で、黒い点だったものがいつしか私の胸にモヤモヤと広がっていき、その出所を辿っていった先にあったのがタイトルの【障害を免罪符にしてはいけない】という思いでした。

重複発達障害を持つ息子は、いずれ自分に合ったライフハックを見つけ、社会生活を営むために自身や工夫しながら生活スタイルを整えていく必要がありますが、今はまだ中学生なので日常生活のあらゆる場面で声がけや配慮が必要です。

何でもできるスーパーマンみたいな人間はこの世に存在しませんが、障害故にできないこと、苦手なことが人よりも多くあり、誰かの手や声がけ(今はもっぱら親の手と声がけ)を必要としなくてはいけない場面がこの先もあると思います。

息子には早い段階で障害告知をしていて、段階的に特性を伝え、理解に繋げていっている最中です。どう頑張ってもできないことがあるのは仕方ないことですが、「そのくらいやってくれたっていいじゃん!」「僕にはADHDがあるんだからやってくれて当たり前じゃん」という言葉が出た時には思いっきり叱り飛ばしました。

サポートしてもらうのは“当たり前”ではないのです。

「配慮やサポートはやってもらって当然」この考えは(定型、身体障害、発達障害問わず)とても危険です。サポートする側が『困っている人を助けるのは人として当たり前』と考えるのと、サポートをしてもらう側が『やってくれて当たり前』と考えるのは大きな違いがあります。

「気をつけてメモを取るように心掛けていますが、忘れっぽいところや他の作業に取り組んでいる時には、他に注意が向きにくいのでひと声かけてくれたら助かります」が本来の気の持ち方だと思っているのです。これが「忘れっぽいって言ったんだから声かけてくれてもいいじゃない(声かけてくれるのが“当たり前”)」だと、誰も協力したり力になろうという気は起きません。障害があろうとなかろうとだと思います。

障害がない人でも、誰かの手やサポートを必要とすることがあります。例えば、外国人と接する時、英語を話せない場合。身近に英語を話せる人がいれば力を借りようとしませんか?その時『俺は(私は)英語が話せないんだから、話せるあなたが相手をするのは当たり前!』と思うでしょうか。大概は「英語を話せないので、ちょっとお願いしてもいいですか?」に自然と態度がなっているはずです。障害があってもこの心持ちが大切だと思うのです。

【やってもらって当たり前】

とても傲慢な考えに思えませんか?少なくとも私にはその姿勢が傲慢で偉そうに感じます。そんな態度をされたら、とても不愉快になると思います。

【共生社会】

とても良い言葉ですし、理念も素晴らしいと思います。それには障害があろうとなかろうと「お手間お掛けします」「いえいえお互い様ですから」「ありがとうございます、助かります」「何かあったら声をかけてくださいね」・・・支援や配慮を何もしたくない、と言っているわけではありません。お互いに気持ちよく社会生活を送る上で、この姿勢が何より大切なのではないか?と考えているのです。どちらかが不愉快な思いをしたり、我慢を強いられる社会は共生とは言えません。

不必要に腰を低く「申し訳ありません」「すみません、ごめんなさい」と生きろなんて、これっぽっちも思いません。

「ごめんなさい/申し訳ありません」も「ありがとう/ありがとうございます」も魔法の言葉ですが、支援や配慮に対しては「ありがとう/ありがとうございます/助かります」の気持ちが何より大切な気がするのです。所謂、【謙虚な姿勢】ですね。

恥ずかしながら私は並外れた方向音痴で、いつもパートナーには手間をかけさせていますが「方向音痴でごめんね」ではなく「いつもありがとう、助かる!」です。これが「方向音痴って知ってるんだから教えてくれたっていいじゃない/教えてくれるのが当たり前だよね」だと、わかっていてもパートナーはカチン!とくるはずです。(実際パートナーに、もし私がそういう態度だったらどう思う?と聞いたことがありますが、「方向音痴以前に人としてダメだ」と言われました)

何が違うのかというと【感謝】の気持ちを常に持っていることです。

「わかってくれて当然」「やってくれて当たり前」

どんなに関係や距離が近くても自分以外この世は全部他者です。あなたを気遣ってくれるのは、気遣ってくれる人のあなたへの“好意”や“愛情”で、それは当たり前ではない、とわかると感謝の気持ちが生まれるのではないでしょうか。夫婦関係にも通じるかもしれませんね。

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