親子でも他者間でも大切、親子だからこそ大切にしたいこと

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

私は現在進行形で発達障害重複を持つ思春期真っ盛りの、面倒くさい息子を養育するシングルマザーです。

修羅場の峠は越えたように思いますが、定型と言われる子供を養育している親に比べると、やはりぶつかり合いは多いのではないかと思います。

WAISで言語は高い息子。でも、特性による認知の歪みから他者間コミュニケーションにズレを生じやすく、また障害特性ゆえに行動に親はモヤモヤイライラしてしまうのが日常です。

さすがにもう血の雨は降りませんが(笑)、減ったとはいえ言い合いになるにもこれまた日常でです。そんな時、息子は自分の部屋に私はリビングで物理的距離を取り、クールダウンします。その後は必ず「さっきは嫌な言い方をしてごめん」「私こそキツイ言い方してごめんね」「実は学校で嫌なことがあって・・・」という流れです。

思春期真っ盛りのこの時期は親に反発しまくる反面、甘えたいというアンビバレント(相反する感情などを持ち葛藤する)な時期でもあります。「母さんの言うことは正論過ぎてムカつく」と言われたことがあります(笑)可愛いさと悪魔が同居していて「ツンデレか!?」と思う毎日ですが、ふと「あー、大人の階段を上ってる最中だもんね」と思ったり。

多少落ち着いたとはいえ、壮絶な親子バトルを繰り広げていた過去を持つ我が家ですが、今の私と息子の関係はかなり良好と言えます。言い合いになる時はあっても、ほとんどは落ち着いて話ができるようになりました。時々ヘンなテンションになり、いきなりタコ踊りを披露してくれる息子に対抗して、私も息子が「お、おう・・・(汗)」な反応をするような返しをしますし、買い物には嫌がらずに荷物持ちとして同行してくれます。外食にもホイホイついて来ます。

何より、「何か困ったことがあれば、かーちゃんはちゃんと話を聞いてくれる、力になってくれる」と思ってくれているようです。ありがたいですね。

その信頼関係のベースにあるものは何なのか?を考えた時に、小さなことでも家庭内に「ありがとう」が当たり前にあること、ちょっと時間はかかっても(クールダウンする)、お互いに「ごめんね」がこれまた当たり前にあることもあるのではないかと思いました。

家族だから言わなくてもわかってくれるはず←家族は血の繋がっただけの(夫婦なんて血も繋がっていない他者)他者ですし、そもそも自分以外、世界中の人は皆他者なのですから「言わなくてもわかる」なんてあり得ません。自分以外、エスパーならわかるかもしれませんが(笑)「言わなくてもわかってくれる」なんて、傲慢以外の何ものでもありません。

家族にいちいちお礼や謝罪なんて照れくさい←恋人に面と向かって「愛してる」と伝えるわけでもないのに、何だか照れくさいの使い方は間違ってますし、大人としてはイマイチカッコ悪い考えに思えます。歳を重ねたよい大人だからこそ、他者の小さな好意や厚意に対し、意識的に「ありがとう」「すみません(ごめんね)」が言えるのではないでしょうか。

「ありがとう」も「ごめんね」も人間関係を柔らかく、他者の気持ちも柔らかくする言葉です。

これからもパートナーに、子供に、友人に。もちろん親に対しても素直に言える自分でありたいと改めて思いました。

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ウェルビーイング(Well-being)

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

今回は最近耳にするようになったウェルビーイングについて考えてみたいと思います。

ウェルビーイングという言葉は最近の言葉ではなく、実は1946年に発表されたWHO憲章からで、『健康とは完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱が存在しないことではない』と記されています。

1946年が第二次世界大戦が終わった翌年のことだと考えると、決して新しい言葉ではないと言えます。

WHO憲章の『健康とは完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱が存在しないことではない』という文言は、今の時代とても重要だと思っています。

昔から現在に至るまで日本社会全体が重視しているのは、WHO憲章のほんの最初の部分『健康とは完全な肉体』までのような気がしてなりません。日本の健康はまさに完全な肉体一辺倒れと言っていい状況です。健康診断は毎年、年2回企業から強制的に受けさせられています。ランニング、スポーツジム、サプリメント、健康食品などなど肉体を意識した商品やサービスで世の中は溢れています。

しかし、WHO憲章の途中から最後の部分『精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱が存在しないことではない』については、身体の健康診断のような仕組みや制度はないと言っても過言ではありません。さらにこの部分については、個人の問題として『タブー視』されていることが、社会的理解が進まない足かせになっているとさえ思えます。

自殺者はここ10年間は2万人台で推移しており、それまでは14年連続3万人台でした。さまざまな要因がありますが、ココロのケアやメンタルヘルスを保持するような仕組みや制度が存在し機能し、且つ社会からタブー視もされていなければ、『精神的及び社会的福祉の状態』の世の中となり、自殺者数はもっと少なく済んでいるかもしれないと思わざるを得ません。

私たちメンタル・イデア・ラボは、『健康とは単に肉体的なことだけではなく、ココロも健康であって初めて“健康な状態”である』と考えていますが、そのココロの健康部分については、未だ企業の中ではタブー視されていると実感しています。メンタルクリニックを受診すると、社会保険の関係で会社にわかってしまうことを恐れている人は大勢いると推察します。またメンタルクリニックを受診することすら精神的ハードルが高いと感じている人も大勢いると推察します。

会社の福利厚生は社員食堂、産休育休、リフレッシュ休暇などさまざまあります。これらも従業員のココロのケアあるいはメンタルヘルスに資することではあります。一方で人間関係に悩んだり、家庭や家族のことで悩んだりしている場合は、休暇などの福利厚生では対応できない種類のものだと思います。医務室はあっても学校の保健室のような、気軽に相談に行ける場所がないため、ずっとその悩みを抱え込むことになります。

メンタルヘルスやココロのケアの場合、最初から医務室ではなく、その前段階である、保健室のような気軽に相談できる場所がこれからの福利厚生には必要ではないかと思っています。

私たちメンタル・イデア・ラボはその会社の保健室となり、心理士という専門家が従業員ひとりひとりの悩みを丁寧に聞き取りながら、その人その人に合ったセッションやカウンセリングをおこないます。必要と判断した場合のみ精神科やメンタルクリニックといった医療機関の受診を勧める、というやり方をしています。

特に職場の人間関係で悩みが多い企業の場合、コミュニケーションスタイルが改善されなければ、いつまでも職場の人間関係で悩む従業員が絶えず、結果離職率も一定水準から下がらない状態が続くことになります。企業としては生産性の観点からも非常に憂慮すべきことです。賃金を上げることは短期的には離職に歯止めをかけることはできますが一過性に過ぎない対処療法です。

従業員の離職率低下と求める人財の採用と定着を考えた時、従業員へのココロのケアやメンタルヘルスを目的とした福利厚生に注力することが求められるのではないでしょうか。それにはタブー視しない組織であることが最も重要であると思います。

メンタル・イデア・ラボは経営陣をはじめ従業員を含めた“組織の健康というウェルビーイングに貢献”しています。

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セルフ認知再構成法にチャレンジしてみましょう【3】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回はセルフ認知再構成法の具体例を書いていきます。

私の場合で説明します。

実際に息子が小4の時にあった出来事です。

前提→確定診断が下り、主治医から診断書と意見書(WISC結果もあり)があるにも関わらず、当時通学していた校長がなかなか教育委員会の判定員に繋がないことで通級が叶わず、面談の度にイライラしていました。

※通級へ通わせるためには、公立の場合、在学している学校長がその必要性を認め、教育委員会の判定員に打診することが制度となっている。したがって、保護者は学校長と相談し交渉することが必須となる。

(1)状況
何度目かの校長面談で、またしても「大丈夫ですよ、私たちは教育のプロですし、みんな無事に卒業して中学に進学してますから」「意見書とテスト結果持参してるので見ていただけますか?」「いやテスト結果なんて見てもわからないし(ハッハッハッ!)お母さん気にし過ぎじゃないですか」と、話しが通じていないトンチンカンなことを言われた。

(2)気分
イライラMAXで最悪、怒りと、自分で教育のプロなんて言っちゃうことに驚愕・・・。
怒り:98
イライラ:80
驚愕:100

(3)自動思考
時間の無駄。
どれだけ自信過剰なのだろう・・・ありえない。
人の話を聞けない人。
校長なんて児童一人一人見てないでしょ。
教育者なのに発達障害について知らないなんてプロ名乗っちゃダメでしょ。

(4)根拠
○持参した主治医からの診断書、意見書もテスト結果もテーブルにほったらかしで見ない。
○そもそも会話が噛み合っていない。

(5)反証
息子からはいつも校庭で一緒に遊び、全校児童の名前を覚えていると聞いている。 

(6)適応的思考
判定員にはまだ繋がっていないが、何度も個人面談には応じてくれている。
せっかちなタイプで人の話を最後まで聞くのが苦手なのかもしれない。
発達障害をまだ躾や個性と思ってるのだろう。

(7)今の気分
モヤモヤ:75
怒り:50
呆れ:80

このように、(7)では(2)の時の気持ちや数値が違うのがわかります。
イライラは消え、代わりに無知に対する呆れの気持ちが表れています。

次に上司から理不尽に叱責を受けたという場面で考えてみましょう。

(1)出来事(状況)
上司から大丈夫だと言われていたから見積書類を確認しなかったのに、今日当日になって取引先から「頼んでいた見積書と違う」と言われ、帰りに同行していた上司から「あれほど確認しろと言ってただろう!何やらせても君は中途半端だな」と叱られた。

(2)気分
ムカムカ:90
苛立ち:100
絶望:50
情けなさ:70

(3)自動思考
え、マジ?オレのせい?
大丈夫って言ったの覚えてないの?!
いくら何でも言いすぎでしょ!

(4)根拠
上司に確認しようとしても大丈夫だと言われた。

(5)反証
今まではちゃんと確認してくれてたし、あんな言い方したことないよな。

(6)適応的思考
上司も余裕なかったのかも。
新プロジェクト抱えて毎日残業してるしな。

(7)今の気分
モヤモヤ:65
絶望:22
情けなさ:0

視点を変えて考えてみると感情やその数値が変化するのをおわかりいただけたでしょうか

自分の思考や感情を一歩退いて見てみるのは、意識しなければついついいつもの自動思考に引っ張られてしまいます。

一度じっくりコラム法に取り組んでみると、ストレスマネジメントやアンガーマネジメントにはもちろん、今まで気づかなかった自分の価値観や認知、思考のクセに出会えると思います。

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認知を歪ませるもの【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

連日暑い日が続きますが、如何お過ごしでしょうか。

さて前回の続きとなります。【1】でもお話ししましたが、認知は後天的に育まれていくその人の“物事の受け取り方”です。

機能不全家族の中で育つと認知は歪みやすいこともお話ししました。

では、それ以外ではどのような原因で認知は歪んでしまうのでしょうか?

生きていく中で、何の出来事も起きずに誰とも関わらなければ、良くも悪くも体験は生まれません。

失敗体験は誰にでもあることですし、失敗体験自体が悪でもありません。しかし、モラハラ上司(あるいはパートナー)に、小さな失敗や間違いをいちいち「何をやらせてもダメだ!」「君のように無能な人間は見たことがない」「見捨てないのは私だけだよ」「何度言ってもこれくらいできないなんて辞めてもらうしかない」「そんなことじゃ、もう別れる」・・・などと否定、ダメ出しばかり言われ続けたとしたらどうでしょう。

もちろん最初は「もう少し頑張ろう」「頑張ればできるかな」と思っていても、度重なる否定やダメ出しに心は削られていき、失敗ばかりの自分、何度やってもダメな無能な自分(思い込みですが)に自己肯定感はダダ下がります。

「どうせ何やっても私(オレ)なんてダメなんだ」と自分に諦めてしまします。

何かにチャレンジする機会があってもツラい経験の積み重ねから「自分なんかどうせまた失敗するに決まってる、自分はクズだ」と考えてしまい、踏み出すことができなくなるのです。

失敗する/間違う=自分は無能なんだ、という認知の歪みに繋がっているのがおわかりでしょうか。

他者を信じられない人は、信じられない根底に“裏切られる怖さ”を抱えているケースも多く見られます。誰でも傷つくのは嫌ですし、裏切られるのはもっと嫌なものです。

お付き合いする度にパートナーに裏切られてきた過去があると、無意識に「どうせまた裏切るんだろう」と思ってしまい、連絡がつかない、LINEに返事がないだけで「浮気しているに違いない」「嫌われたんじゃないか」と考えます。

自分の不安や認知の歪みを客観視できないことで、相手の都合を考えられず鬼電鬼LINEをし、本当に嫌われて終わります。←やっぱり私は嫌われるんだ/裏切られるんだ、という負の経験を積む結果になる。

パートナーだけではなく交友関係にも当てはまりますね。

過去、プライベートで自分のタイミングで連絡がつかない、と鬼電鬼メールしてくる人がいました。

「本当は私のこと、どうでもいいと思ってるでしょ?」

「メールくらいすぐ返せるのにメールくれないなんて私のこと嫌いでしょ?」

「私のこと、心配じゃないんでしょ?」

と、こちらの都合はマルっと無視です。

「きっと忙しいだな」「手が空いたら連絡来るだろう」という認知だったら、こうはならなかったはずです。

対面カウンセリングやセッション中には、それが誰でもどんな用件でも一切レスはできませんし(携帯を見ません)、寝ている時にも当たり前にレスはできません。仕事中などはすぐにレスを返せないことは多くの人が経験していると思います。

付き合いきれなくなり“お付き合い終了”となったわけですが、最後に言われたのが「結局ハルちゃんも私のこと裏切るんだ・・・」でした。

寝込むほどげんなり疲れたのは言うまでもありません。

認知の歪みは自分を縛りつけ、苦しめるだけでなく、人間関係も破壊しかねません。時々「この受け取り方って、一方向からの思い込みになってないかな」と意識してみるとよいかもしれませんね。

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ASD孤立型重複なし【2】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回からの続きで、私が感じる特性(特徴)とパートナーに聞き取りをしながら書いている【2】になります。それでは実像に迫ってみましょう。

『ASD孤立型重複なし』はASD三つ組の特性の中でも、特に人間関係の考え方や築き方に特徴があるようです。

基本はASDなので特性に濃淡はあっても強いこだわりやマイルールは当然ありますし(私は気にしておらず、そのこだわりを尊重しています)、自分のペースを乱されたり先の見通しが立たないことや、いきなりの予定変更には私たちが考えられないくらいの強いストレスを感じるそうです。例えば、今日からこうしてください、今日からこうします、と言われた時、表面上は了解し従うものの、内心では拒絶反応があるようです。つまり、拒絶しながらも従っている、という矛盾を抱えた状態になるようです。表面上はまったくわかりませんね。

またネガティブな感情や気持ちを整理したり、折り合いをつけるにも結構時間がかかります。『寝たら忘れる』などお気楽さはないようで、パートナー自身の問題として時間という薬が必要です。長い時は1週間から2週間かかるそうです。その間、折り合いをつける過程で、内心で起きているのは自暴自棄であり、絶望であり、怒りであり、負のスパイラルに陥って極論まで含めた相当な葛藤があるようです。

そのような時は少し話すとわかるので、そっと見守るという放置タイムになります。ここで「何で?」「どうかした?」「どうしたの?」を繰り出すと、あまりのウザさに心のシャッターをピシャリと閉め“閉店”あるいは“閉鎖”、下手をすると強制終了(別れる)になる可能性大です。

普段からこっちに来るなオーラが無意識に出まくってしまうのと、見た目も怖いので(人当たりは抜群に悪い)、人混みを歩いていると自然とパートナーの前には道が開け、誰にもぶつからずに早足で歩いています(まるで海を割るモーゼの十戒のような?)。歩きやすくて羨ましい限りですが、一緒にいる私はなぜかガンガンぶつかられます。一緒に歩いていても、その恩恵は受けられません・・・残念です(泣)

「友人はいない」「いらない」と言い切っていますが、一緒に食事を楽しむ“知り合い以上友人未満”のような人はいるようで、孤立型で他者に無関心ではあるものの、人嫌いという訳ではなく引きこもりでもないので、お酒も飲む彼は歓楽街へ飲みにも行きます。ただし必ず決まって一人で行きます。誰かを誘って飲みに行こうとは決して思わないそうです。

行動“だけ”を見れば、とてもASD孤立型には思えませんが、やはりそこは孤立型、「たまには誰かと食事へ行くし、ホステスさんがいるお店に飲みにも行くけど、いつも内心は『独り』の感覚」だそう。

それはどういうことか尋ねたところ、

「物理的には一緒に飲み食いしながら何かしら話しているけど、精神的には一緒にいる感覚はない。分離している感じ。交流しているようで実はしていない感じ」

よくわからないので、さらに説明を求めたところ、

「例えとしてどうかわからないけど、同じコップに入っている水と油みたいなイメージ。そもそも同じコップに入りたくないのが基本スタンスだから、同じコップ(一緒に飲み食いしている)に入っている時点で自分としては十分なんだよね。だから入っているからといって、わざわざ混ざり合うことはないかな、と。相手が水でオレが油だとしたら、水と油は決して混ざり合わないで分離するでしょ?話が合わないという意味では決してなくて、それなりに楽しいんだけど、たぶん共感という界面活性剤がない状態だから、感情の部分で交流できていないんだろうね。水と油が入った瓶を振ると混ざったようになるけど、振るのを止めたらすぐ分離するでしょ、あんな感じ。会話している時は瓶を振っている時と思ってもらうといいかも。ドレッシングなコミュニケーションだな(笑)」

独特な例えだなと思いながら、なるほど共感力が乏しい故に内心では独り、と感じるのは頷けます。だからといって、孤独感に陥って落ち込んだり寂しくならないのは、孤立型特有の『他者に興味・関心がほぼないことが基本スタンスであり、そもそも一人がいい』という特性の成せる技なのだろうと思われます。

私はつまらないほど定型なので、仲のよい友人とはくだらないやり取りをしょっちゅうしていますし、バウンダリーも当然近いと思っています。そのため間違いなく互いに友人と認識し、存在に感謝し合っている(だろう)と思っていて、その感覚とパートナーのそれはまったく違うものに感じます。

パートナーの場合、私のように互いに友人と認識し、存在に感謝し合う関係になるまで、相当な時間を要するだろうと想像します。いや、最初からそんな関係は望んでいないかもしれません。会うのは年に2〜3回、連絡は会う際の段取りを決める時だけ、会っても交流しているようで実はしていないとなれば、私が私の友人達に対して思っている感覚に至るのは、現実的には正直難しいだろうなと思います(笑)下手をすれば自然消滅することが濃厚です。

その点をあえて聞いたところ、

「自然消滅した人?、うーん、自然消滅したかどうかわからないけど、長いこと連絡を取り合っていない人は何人かいるよ。」・・・やはり(笑)

さらに、もしそういう人から久しぶりに連絡があったらどうするの?と聞くと、

「普通に話すし、会おうとなれば会うよ。別に嫌いな人じゃないから。」

逆にずっと連絡がなかったら?と聞くと、

「それはそれで構わない。だいたい自然消滅はお互い確認のしようがないから、個々人の時間軸で計って、自然消滅したと思ったほうが勝手にピリオドを打つんだよ。」

でした。パートナーの中では自然消滅している感覚はないようで、たまたま長い間会っていないだけ、に過ぎないようです。仮に自然消滅していたとしても構わないと言い切ってしまうあたり、まるで一期一会のような人間関係の構築ですね(笑)

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心の生活習慣

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は私が普段から意識したり、実践していることについてお話ししようと思います。

当然疲れ果ててできない日もありますし、何となくサボってしまう時もありますが、それこそ“人間だもの”と自分を許し(甘やかし?)、「明日はやろっと!」と思うだけです。

普段から常に意識しているのはマインドフルネスです。

私は主に脳の疲れをリセットしたい時やストレスマネジメントに使っています。慣れると電車内でも自転車に乗りながらでも、周りに注意は払いながら瞑想モードに入れます。

私は本来感情の起伏もなだらかでイライラしやすいタイプでもキレやすいタイプでもありませんが、モヤモヤしたり『?!』は感じるのでマインドフルネスを心掛けています。

折り合いをつけづらい(理不尽が多い)気持ちはコラム法で視覚化し、自分の中に認知の歪みが出ていないか確認し、ごちゃごちゃになりやすい問題は課題の洗い出しでマインドマップを使います。

コラム法:その時の出来事とその時の感情、思考を紙に書き出し、自分の認知の癖に気付きバランスを整えていく認知療法。

一番気持ちがザワつくことが多いのは、やはり発達障害重複(ASDとADHDの両方)を持つ思春期真っ只中の手強い息子に対してで、普段から気持ちをフラットにしておくことを心掛けないと、あっという間にバイアスがかかり親子関係が悪化します。

私のスキルは息子に鍛えられていると言ってよいかもしれません(笑)。手強い息子に感謝です。

人は思考、感情の生き物です。感情がなければ人間とは言えないかもしれませんね。考えなくなったらただの葦ですし・・・。

ただ、感情のままに生きる、感情を他者にぶつける、これでは自分も苦しいことがあります。そんな感情マネジメントができない人が相手だと、他者も付き合いづらいと感じるでしょう。当然人間関係に齟齬や軋轢を生みやすくなります。

感情マネジメントとアサーションを身につけるのは、気持ちよい人間関係構築のための社会人必須のスキルではないか、と思う今日この頃です。

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他者の気遣いや無意識の厚意に感謝するという小さな当たり前の姿勢

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

感謝は強制されるものではなく内側から出る自発的な感情ですから、誰に対してもどんな時にも周りに平身低頭感謝しまくりましょう・・・なんてことはこれっぽっちも思いません。

ですが、他者の“厚意”からくる行動を当たり前に思い、感謝しないどころか自分が想像(勝手に期待?)していたとおりに他者が行動を起こさないと不満に感じ、文句を垂れたり酷いとぶちギレる人が増えたように思います。余裕の無さやイライラしやすいのはコロナのせいもあるのかもしれませんが、他者に攻撃的な気持ちを持ちやすいのはまたちょっと違う気がします。

例えば、余程いじわるな人でなければ、自分が先に乗り込んだエレベーターに後から人が乗ろうといているのにわざわざ【閉】ボタンを連打して扉に挟もうとはしないと思います(笑)でも『あ、乗ろうとしているんだな』と【開】ボタンを押すのは頼まれたわけでもなくても、挟まれないようにという“気遣い”“厚意”からくる行動です。

「乗ろうとしているんだから【開】ボタンを押しておくのは当たり前でしょ!」と考えたアナタは、それは「〜すべき」思考が混じるちょっと偏った考え方です。確かに扉を開けておくのはマナーかもしれませんが、やってもらって当たり前、やるべきこと、という決まり事ではありませんよね。

私でも自分が先に乗り込んだ時に階数ボタンの前に立っていれば当然【開】ボタンを押して待っていますし、奥に階数ボタンがないエレベーターでは「何階ですか?」と尋ねることもあります。毎回ではありませんが。

自分が逆の立場なら「3階お願いします/押してもらえますか?」とお願いします。恐らく多くの人はそうしているだろうと思います。

ここで偏った自分本位な考えを持つ人は、自分から「○階お願いします」と意思表示をしなくても「フツー何階に行くか聞くもんでしょ、階数ボタンに近いんだし」と考えます。そのような考えを持つ心理の共通として、〇〇すべき、という行き過ぎた白黒思考だったり、他者の価値観や思考を認めない自他境界の曖昧な人に多く見られるようです。あなたとまったく同じ考えや感情を持つ人は“いない”と考えましょう。

たまたま同じエレベーターに乗り合わせただけの真っ赤な他者で、明らかなエレベーター係(今時いる方が少ない)でもない一般人に、階数ボタンの前にいるというだけで、何故そこまで他者を気遣うことを“当たり前に求めるのか”です。飽くまでも任意の行為を無意識に義務の行為と勘違いしているか、日頃から他者を見下している愚か者です。

「ありがとうございます。」「助かります。」

毎回いちいち口にしなくていい場面でも、この気持ちは大切にしたいものです。

常々『ありがとう』『ごめんなさい』は人間関係をまろやかにする魔法の言葉だと思っていますが、『ありがとう』と言われて嫌な気持ちになる人はまずいません。

「(私のために)ありがとう」と伝えること、ありがとうと口に出さないまでも、ありがとうの気持ちを持つこと。相手との距離が近くなればなるほど忘れがちなことですが、何より大切なことではないでしょうか。

思っているだけでは伝わりません。どんなことも「言わなくてもわかる(わかってる)だろう」という考えは改めて、ニッコリ「ありがとう!」。

立場に関係なく気持ちいい人間関係のコツかもしれませんね。

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無意識に存在する傲慢な気持ちが人間関係を不安定にする

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

相手が私(親)で場所も家だからなのか、発達障害重複の息子は「ADHDなんだから、できなくても仕方ないじゃん!やってくれてもいいじゃん、そのくらい!」がかなりの頻度で口を突いて出ます。

「やってくれてもいいじゃんそのくらい」は“そのくらい”のことをやってもらうために他者(親でも他者です)に手間をかけさせ、時間を搾取するということ、わかってますか?何より“そのくらい”なら自分でやればよくないですか?

いくら親だとはいえ、ものを頼むなら頼み方というものがあると思いますし、「できないんだからやってくれてもいいじゃん!」(そのくらいやってくれて当然)という考えそのものに傲慢な気持ちが透けて見えて、かなり不愉快になります。

親子でなければ能面になるくらい不快です。

人に何か頼む時、これは発達障害であるかどうかにかかわらず、頼む側に傲慢な気持ちが相手に透けて見えたら、その人間関係は不安定になります。

わかりやすい例として「カネがないんだから、借してくれたっていいじゃないか!」と言って借りる人はいないと思います。もし仮にそう言われたら、絶対に貸したくないし、今後は関わらないようにしませんか?(笑)

ADHDだから不得手なことが人よりも多く困り感もあるのは理解しています。ですが、発達障害だろうが定型だろうが何でも世話を焼く年齢ではないので、頼まれてもお断り!や、ヒントを与えるだけの時もあります。

「頑張ったけどここまでしか出来なかったから、〇〇を手伝ってもらってもいい?(手伝ってもらえる?)」「手が空いているなら〇〇お願いできる?」が他者を不愉快にしないスマートな頼み方だと思うのです。自分は手もつけないで(努力せずに)ADHDだから出来ないと投げ出し、「そのくらいやってよ」はいくらなんでも酷すぎます。

料理は私がやりますが、我が家では息子が3歳から自分が使った食器は自分で洗うのがルールです。お立ち台を準備し、最初は洗い方を教え「綺麗になってキュッキュッて気気持ちいいよね、やってみよう」で習慣化させましたが、何しろ今は何もが面倒に感じて、やたら親子関係が悪化しがちな思春期。

息子:ついでに洗っといて。

私:・・・(頼み方ってもんがあるだろ) です。

こうではなく、

息子:一緒に洗ってもらえる?(洗ってもらってもいい?)

私:いいよ、“ついでだから”洗っとくよ。

息子:ありがとう ←こうではないかと思うのです。

頼む側が“ついでに”なんて言ってはダメなのです。

「暇そうなんだからやってくれたっていいじゃない」「出来ないんだから手を貸してくれるのは当たり前でしょ」「見ててわかるでしょ、忙しそうなの、普通は自分から手伝わない?」

思い当たることありませんか?自分以外は親でも子でも血が繋がっているだけの他者、上司や部下、同僚、友人、パートナーに至っては血も繋がっていない他者です。口に出さなければあなたがどう考えているのかなんてわかりませんし、わかっていたとしても何を望んでいるのかまで細かくはわかりません。それを求めること自体が「何様?」な気がします。

時間が経ち、距離が近くなり関係性が変化(安定・安心)してくると、誰にでも無意識に傲慢な気持ちが顔を出しがちです。のっけから厚かましい傲慢な人もたまにはいると思います。そんな人には、ノーリアクション能面で遠い目をする、なんてシオシオさ対応もアリかもしれません(笑)

互いに慣れてきた時こそ、気持ち良いお願いの仕方や頼み方を心がけ、きちんとした感謝や謝罪の気持ちを『言葉にして伝える』こと、その大切さを思い出しましょう。

察してちゃんは面倒極まりない人に他ならないのです。

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生きづらさ/アタッチメント不全【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回アタッチメント不全は人間関係に影響を及ぼすという話をしました。

不安定なアタッチメントは、社会生活を送りながら広がっていく人間関係すべてに表れます。ある時は表面だけの付き合いで、顔を合わさなくなれば縁遠くなって交友関係が終わってしまう。学校や職場でも同じで、親しくしていてもその場だけ、プライベートに踏み込んだ深い付き合いや関わり合いを避ける。また、反対に依存傾向が強くなり、程よい距離で信頼に裏打ちされた人間関係を構築できず苦しみます。

自分はダメな人間だからどうなってもいい、いなくなりたいと思う。人を信じることができない、そもそも信じるということがどういうことかわからない。自分の味方でいようとしてくれる人に対して攻撃的な気持ちを持ってしまう(攻撃的な言動をとる)、思い出したくない過去がある、生活していて現実感がないと感じる時がある、上手く人に感情を出せない・・・これらはアタッチメント不全からくる複雑性PTSDかもしれません。

他者と気持ちを通わせることができない、信じたいのに信じることができない孤独は本当に辛いと思います。

身近な養育者から関心を向けてもらえないことや、虐待や否定ばかりで精神的に抑圧され続けると、認めてもらいたい、愛してほしい気持ちや自分に目を向けてほしい気持ちから気に入られる良い子でいよう、いなくてはと思うようになります。

養育者の機嫌を伺い、表情を読み、否定拒絶されないように取り繕って振る舞うことを繰り返す中で、他者に対しても本当に気を許すことができず、信頼して感情を出すことに不安が強く、不信や恐怖を感じるようになるのです。

必要以上に空気を読み、「こう言えば相手を喜ばせることができる」「こう言えば自分をこう見てもらえる」と自分の感情より周りにどう映るのかばかりをいつも意識していると、本当の自分の気持ちをわからなくなり、自分を見失ってしまうのです。

上手く信頼関係を築くことができないので、自分を支えようとしてくれる支援者や理解者(パートナーも含む)に対し、無意識のうちに「この人は本当に自分を理解してくれようとしているのか/理解しているのか」を歪な形の試し行為で確認しようとし、結果怒りを買ったり呆れられて人が離れていってしまい、離れていったことに「やっぱりわかってもらえなかった」「人は裏切るものなんだ」「人は信じられない」と深く傷つきます。

ここで愛着スタイルの違いについて説明しようと思います。

アタッチメント不全は不安定なアタッチメントが問題ですが、不安定なアタッチメントには2つの愛着スタイルがあります。

不安型と回避型です。

不安型と回避型では内面はともかく、ストレス下では違った表れ方をします。

対人関係でのトラブルも、一見クールで冷めたような対応でほとんど表情を変えない回避型に比べ、不安型は見捨てられ不安からしがみ付いたり、取り乱して抵抗します。見捨てられ不安が強く不安定な人間関係しか築けず、身勝手に映る場面が多い不安型は、パーソナリティ障害の境界例と酷似しています。

トラブルがあっても周りに人がいても相談できず、じっと一人で抱え込み、耐えるのが回避型。誰かれ構わず巻き込み、甘えられる人には甘えようとするのが不安型です。

HSPの特徴と被る部分もありますが、他者の顔色や気持ちの変化に敏感で、気に入られようと必要以上に空気を読む人もいれば、対人関係に冷めた気持ちでクールに見える(何を考えているのかわからない、と言われるようです)人もいるので、根底に横たわる問題がアタッチメント不全であっても表れ方は十人十色、100人いれば100通りです。

次回、少し回避型の特徴を掘り下げてアタッチメント不全の話は終わりにします。

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生きづらさ/アタッチメント不全【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

生きづらさを感じながら生活をしている人が増えています。それは一体どのような生きづらさなのでしょうか・・・。

  • 対人関係が上手くいかない。
  • 人より劣っていると感じて苦しい。
  • 今の環境(会社/職場、家庭)に馴染めない。
  • いろんなことが気になって疲れる。
  • 他者に不安感、不信感が強い。

生きづらさを突き詰めていくと、何らかの原因があります。原因次第では認知療法の練習を重ねて生きづらさを上手く薄めていく方法や、自分らしさを取り戻していくプログラムがあったり、診断を受けて自己理解を深めると同時に自身でさまざまなライフハックを取り入れながら周りに配慮をお願いできる場合もあります。

発達障害(グレーゾーン/LD)やアタッチメント不全(愛着不全)、HSP(HSC)などがあると、生きづらさを感じる場面が増えます。

今回から2回に渡り、アタッチメント不全(愛着障害)についてお話ししていこうと思います。

アタッチメント不全、いわゆる愛着障害は幼少期の親(養育者)との関係が原因で自己肯定感が低下することで、本人の自覚はなくても心に深い傷を残しながら成長し、成人してからも人間関係を上手く築けないことから生きづらさを抱えます。

近年増加中の虐待死を考えればわかるように、虐待(身体的・精神的・性的・養育遺棄<ネグレクト>)は外から見えづらいことも多く、第三者が介入するタイミングが難しい事案です。

何より子供にとって家庭/親子関係は、一番身近で人間関係の最初の一歩を学ぶ場です。最初に学ぶ場で歪んだ愛情を与えられたり、がんじ絡めにされたり、関心を持ってもらえず心に空虚なものを抱えて成長すると“自分を尊重し大切にする”という自己肯定感が育まれません。

親に認められずダメ出しばかりで否定されて育つと『自分は何をやってもできないダメな子なんだ』と自己肯定感はどんどん下がりますし、子供に関心がなく気にもかけなければ『自分は愛されてない』『自分は大切にされる価値もない人間なんだ』と失望し、孤独になります。

親が子供の安全地帯であること、叱ることがあっても認めるべき部分にはきちんと目を向けること、まだ小さくて自分の意思を上手く伝えられなくても、人格を持つ一人の人間であると認めてコミュニケーションを取り、接していくことがとても大切です。

言うことを聞かせよう、思いどおりにさせようと威圧的に支配するような言動は少しずつ子供の心を傷つけ、抑圧と否定ばかりの中で自己肯定感と尊厳を擦り減らしていくのです。

大人でも仕事で「はぁ・・・何やらせても中途半端でロクな出来じゃないな、ダメだダメだ」と否定され続けると自信もやる気も無くしませんか?

「何やらせても出来ないんだから何もせず黙ってデスクにいるだけでいいよ(ため息)」と言われたり、そんな空気を出されて誰からも期待されず、気にもかけてもらえなければ居場所がなくなり、自分は無能だと感じて孤独になりませんか?また、大なり小なりそのような経験はありませんか?

大人ですら鬱になりそうなダメ出しや否定の嵐、まだ自分で自分の心を守る術も愚痴を吐いてリカバーする場所もなく、助けすら求める場を知らない子供たちの見えない苦しみを想像してみてください。

自己肯定感は人間関係構築に大きく影響し、幸せを感じる幸福感をも左右します。

次回はアタッチメント不全がもたらす人間関係への生きづらさが、具体的にどのような形で表れるのかについてお話しします。

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