ママ友必要か問題

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

以前にも書いたことがありますが、私はママ友がいません。今息子は高校生なので、いませんでした、のほうが正確かもしれません。

社会性も高く、人見知りも皆無、人当たりも良い(悪ければ人の話を聞く仕事はできないと思います)ので、さぞやママ友も友達もたくさんいるのでは?と思われがちですが、実はママ友は一人もいません(笑)友達もたくさんはいません。

戦略的ポツンなので、参観や懇親会があり学校へ出向くことがあっても独りぼっちで、おしゃべりする“ママ友”がいなくても、息子が小さな頃に公園や児童館へ行ってあちこちにグループを作っているママ達の輪に入らなくても平気です。

子供同士が遊んでいれば挨拶はしますし、本当に当たり障りのない話をその場でするくらいのことはしますが、絶対にそれ以上のプライバシーに踏み込むこともなければ、踏み込ませることもありません。また、私からそれ以上話題を広げることもしません。

もちろん、物理的に距離があり何年も会わなくても心から信頼している長い付き合いの友人もいれば、ありがたいことに大人になってから知り合い、信頼関係を築いてきて互いを思い遣る関係になった大切な友人もいます。結果、お互い子育てをするママ同士だった、でしかなく、子供の年齢はひと回り以上も離れていたりします。

なぜ自分はママ友はいらないと思うのか考えてみました。

まずママ友ですから、仕事に趣味嗜好といった共通項の前に、子供がいる(年齢、家族構成はともかく、同じ年頃の子供がいる)のは前提条件でしょう。出会う場所は、出産した産院・幼稚園・保育園・公園・児童館・学校でしょうか。育児の悩み(夫や舅姑の悪口や愚痴?)や生活の情報交換あたりが目的のように思います。

私にとってあまり面白くありません。愚痴をこぼすのが悪いのではなく、悪口を垂れ流すのを聞くのが苦痛。

察してちゃんがとても苦手なので、意見や不満をきちんと伝えずに、ただ“見てればわかるのに手伝ってくれない旦那(や舅姑)”の愚痴や悪口を垂れ流し「うちもウチも!最低」と同調(共感ではなく)しているだけの気持ち悪さ。ナチュラルに繰り広げられる子供やパートナー、住まいや生活ぶりのマウンティングが非常に面倒。

たぶん、共通項が“育児”を取り巻く“家族関係”だけが話題の中心にあるのがつまらないのではなく、腹の探り合いや「ホントは好きじゃないけど子供が同じクラスだし」「うまく付き合わないとハブられるかも」「影響力がありそうなママだし」と不安を持ち、あっさい所で当たり障りなく表面上付き合っていくことも苦手なのだと思います。

情報交換もいらない。必要な情報は自分から調べ行動するし「じゃぁ、家族ぐるみで」など考えないし、私にはやはりママ友は要らなそうです(笑)・・・というか息子が高校生の今、今さらもうできないですね(笑)

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ウェルビーイング(Well-being)

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

今回は最近耳にするようになったウェルビーイングについて考えてみたいと思います。

ウェルビーイングという言葉は最近の言葉ではなく、実は1946年に発表されたWHO憲章からで、『健康とは完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱が存在しないことではない』と記されています。

1946年が第二次世界大戦が終わった翌年のことだと考えると、決して新しい言葉ではないと言えます。

WHO憲章の『健康とは完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱が存在しないことではない』という文言は、今の時代とても重要だと思っています。

昔から現在に至るまで日本社会全体が重視しているのは、WHO憲章のほんの最初の部分『健康とは完全な肉体』までのような気がしてなりません。日本の健康はまさに完全な肉体一辺倒れと言っていい状況です。健康診断は毎年、年2回企業から強制的に受けさせられています。ランニング、スポーツジム、サプリメント、健康食品などなど肉体を意識した商品やサービスで世の中は溢れています。

しかし、WHO憲章の途中から最後の部分『精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱が存在しないことではない』については、身体の健康診断のような仕組みや制度はないと言っても過言ではありません。さらにこの部分については、個人の問題として『タブー視』されていることが、社会的理解が進まない足かせになっているとさえ思えます。

自殺者はここ10年間は2万人台で推移しており、それまでは14年連続3万人台でした。さまざまな要因がありますが、ココロのケアやメンタルヘルスを保持するような仕組みや制度が存在し機能し、且つ社会からタブー視もされていなければ、『精神的及び社会的福祉の状態』の世の中となり、自殺者数はもっと少なく済んでいるかもしれないと思わざるを得ません。

私たちメンタル・イデア・ラボは、『健康とは単に肉体的なことだけではなく、ココロも健康であって初めて“健康な状態”である』と考えていますが、そのココロの健康部分については、未だ企業の中ではタブー視されていると実感しています。メンタルクリニックを受診すると、社会保険の関係で会社にわかってしまうことを恐れている人は大勢いると推察します。またメンタルクリニックを受診することすら精神的ハードルが高いと感じている人も大勢いると推察します。

会社の福利厚生は社員食堂、産休育休、リフレッシュ休暇などさまざまあります。これらも従業員のココロのケアあるいはメンタルヘルスに資することではあります。一方で人間関係に悩んだり、家庭や家族のことで悩んだりしている場合は、休暇などの福利厚生では対応できない種類のものだと思います。医務室はあっても学校の保健室のような、気軽に相談に行ける場所がないため、ずっとその悩みを抱え込むことになります。

メンタルヘルスやココロのケアの場合、最初から医務室ではなく、その前段階である、保健室のような気軽に相談できる場所がこれからの福利厚生には必要ではないかと思っています。

私たちメンタル・イデア・ラボはその会社の保健室となり、心理士という専門家が従業員ひとりひとりの悩みを丁寧に聞き取りながら、その人その人に合ったセッションやカウンセリングをおこないます。必要と判断した場合のみ精神科やメンタルクリニックといった医療機関の受診を勧める、というやり方をしています。

特に職場の人間関係で悩みが多い企業の場合、コミュニケーションスタイルが改善されなければ、いつまでも職場の人間関係で悩む従業員が絶えず、結果離職率も一定水準から下がらない状態が続くことになります。企業としては生産性の観点からも非常に憂慮すべきことです。賃金を上げることは短期的には離職に歯止めをかけることはできますが一過性に過ぎない対処療法です。

従業員の離職率低下と求める人財の採用と定着を考えた時、従業員へのココロのケアやメンタルヘルスを目的とした福利厚生に注力することが求められるのではないでしょうか。それにはタブー視しない組織であることが最も重要であると思います。

メンタル・イデア・ラボは経営陣をはじめ従業員を含めた“組織の健康というウェルビーイングに貢献”しています。

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“ブレる”という自分軸(相対性視点)

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

秋らしく、というより冬らしくなってきましたが、体調はいかがですか。寒暖差が激しいので、体調を壊しやすくなるので気をつけたいものです。

さて今回は、認知心理学からは遠く離れますが、今回「アイツは自分がないよな」「あの人は自分軸持ってないのかな」「彼(彼女)は芯がブレブレだ」「彼女は(人/流行)流されやすい」などと誰かを評価する時に言われがちな表現について深掘りしてみたいと思います。

自分がない、芯が弱い、自分軸がない。人を褒める言葉ではないように感じます。

自分がない/ブレブレ/流されやすい、には水面に漂う根無草(根はあるのですが、地に根付いていないだけ)“浮草”のようなイメージを、自分軸がある/ブレない、には地に根を張った揺らがない意思の強さをイメージするのではないでしょうか。

つい最近ボスと話しをしていて、実はすべての人は“ブレていない”のではないか?という答えに辿り着きました。

初志貫徹、確かにブレない感があります。一方、言うことがコロコロ変わり、その度に誰かを振り回す結果になっていると、何だか自分がなくて自分軸がない感じです。

自分軸とはしっかり地に根付いているとは限らないのでは?のようなやり取りから、【ブレっブレなのが自分軸】【人の影響を受けまくってすぐに自分を見失うのが自分軸】【どんな流行りにもとりあえず乗らなきゃ気が済まないのが自分軸】【(無自覚ではあるものの)自分がないのが自分軸】ではないか?と。

根無草のようにあっちにふら〜り、こっちにフラ〜り・・・が、そのままその人の自分軸。他者に影響を受けまくり、他者の評価ばかり気にしていつもオタオタ、それが自分軸。

つまり、『根無草であることが自分軸』という見解です。それもひとつの自分軸の形だとすれば、先の“実はすべての人は“ブレていない”のではない”という見方ができるというわけです。

想像してみてください。背景が一切ない白壁だけの中にいるとします。目の錯覚で、実際は動いているのに、自分と一緒に動いているものを見ると止まっているように見える現象があります。一般にブレていると言われている人の視点はこういうイメージなのではないか、ということです。つまり一緒に動いているものに流行や人を当てはめれば、本人は動いていない(流されていない)という主張が可能になることを意味します。

止まっている人からすれば、動きまくっている(流されまくっている)ように“見える”だけで、双方の言い分はどちらも正しいことになる、というわけです。

流行や人の意見・考えを止まって見るか、一緒に動いて見るか、の違いに過ぎないということです。

相対的なことで、流行などに流されまくっている人だけの集団にいると、自分は流されていないという錯覚を抱き、流されない人だけの集団にいると、自分は流されているという錯覚を抱く、と言えます。すべては錯覚ということです。

自分の考えを持っている(自分の物差しがある)=流されていない、という錯覚。自分の考えを持っていない(自分の物差しがない)=流されている、という錯覚。

周りに自分の視点から見て、流されていると“見える”人がいた場合、バカにしたり蔑むのではなく、あれもその人の自分軸だと思えば、不快感を抱いたり、バカにすることなく、フラットな気持ちで相手を見ることができるのではないかと思うのです。ただし重要なことがあります。それは、その人の自分軸に巻き込まれない場合に限る、ということです(笑)

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息子のWAISを取ってみました【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回の続きで、ワーキングメモリーの説明からスタートします。

ワーキングメモリー(WM)
聴覚情報を一時的に保持したり、その情報を元に考えたりアウトプットする能力
実行機能の凸凹を表している指標でもあるため、ADHDやLDでは特徴が表れやすくなります。この指標が低いと、話の途中で何を話していたのかわからなくなったり、本を読んでいても内容がわかならくなるなどが起こります。ワーキングメモリーに課題があると生きづらさを感じやすい場面が増えることが予想されます。

息子の苦手さはこのWMとPSI(処理速度:この後に説明します)に顕著に表れているのですが、WMの弱さがあるとどのようなことが起きるのか?

学校や職場で与えられる指示は一度に一つずつとは限りません。WMが弱いと記憶の一時保持に苦手が出るので「次の時間は理科です、画版を片付け一旦教室に戻って教科書、ノートを持ち、理科室に集合してください」などいくつもの指示が含まれるものは、入ったそばから抜け落ちます。残るのは「理科室に集合してください」になるわけです。学校の場合、周りの生徒の動きを見ながら行動できるので、ワンテンポ遅れることはあっても何となくできてしまい、本人も周りも気付かない、できているように見えることもあります。学校生活で一斉指示が入りにくいのはWMの低さからくる場合もあるのです。息子も小学生のうちは一斉指示+息子個人に対し、一つずつ個別指示してもらっていました。

しかし、社会人になるとそうもいかないので、いきなり“できない人”、“話を聞いてない人”になってしまいます。発達障害特性がある人はWMが低い人が多いので、「指示は一つずつ」が鉄則です。

処理速度(PSI)
単純作業を正確に早くおこなう能力
計算、見て覚えたことを素早く書き出す、示された図を数ある中から早く正確に探し出す、などになります。

いわゆる作業能力で、情報処理のスピードと言うとわかりやすいでしょうか。PSIが低いと、集中が続かず作業効率が悪く、一度覚えた作業(学習)でも遅くなります。スピードを求めるとかえってミスが増えるという悪循環に陥ります。

この指標に弱さがある子供にスピードで競わせるドリルや100マス計算はキツイです。社会人では急いで資料をまとめるなどにミスが増えやすくなるので「ゆっくりでもいいから丁寧に」になると思います。

自分の得手不得手がわかると苦手なことに対策を立てやすくなります。「みんなと同じことができないなんて自分は劣っている・・・」などと自己肯定感がダダ下がる前に、一度WAISやWISCを取り、自分の特性を客観的に知るとよいかもしれません。

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息子のWAISを取ってみました【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

息子は9歳から発達具合や課題洗い出しのために2年に一度、WISCを取ってきましたが、年齢的(17歳)にも微妙だったので、今回からWISCではなくWAISを取ることにしました。

それぞれの数値は息子のプライバシーに関わることなので割愛しますが、そこから読み解ける彼の得手不得手(凸凹)、日常生活でどのような困り感として表れているかなど、お話ししたいと思います。

コラムでも何度かWAISやWISCについては書いていますが、改めておさらいしておきます。

WAISではそれぞれ

  • 言語理解(VCI)
  • 知覚推理(PRI)
  • ワーキングメモリー(WM)
  • 処理速度(PSI)

という4種類の指標得点を算出し、この指標により得手不得手(凸凹)を見ています。また、4つの指標の総得点であるFSIQ(IQ)も表されますが、これは前述の4つの指標がほぼ同レベルの人と4つの指標間で大きな差がある人では、学習面や社会生活を送る上で能力にかなりの差があります。FSIQが高いから優秀(成績が良い/仕事ができる)、FSIQが高いから生きやすい、とは限らないということです。

【1】では言語理解(VCI)と知覚推理(PRI)の2つの指標について少し詳しくお話しします。

言語理解(VCI)
一般的な知識や社会ルールの理解力も含め、言語を理解したり言葉で説明する能力
学校で教わる教科の学習の出来不出来というより、言葉を使って物事を理解し、また表現するために持っている潜在能力と言ったほうがわかりやすいかもしれません。

●知覚推理(PRI)
視覚情報から物事を理解したり、視覚情報をもとに推理思考する能力
論理的思考や状況理解力も見ることができます。この指数が低い人は、目の前の状況を理解、推理しパターン化したり分類することに苦手があります。

学園祭実行委員を例に説明します。 学園祭のために多くの人がさまざまな役割を担い、あるグループはアーチやポスターなど美術関係、あるグループはサークルごとの催し物について、あるグループは屋台など食べ物関係と分担しながら動いています。知覚推理(PRI)が低い人はこの状況を各々が何をしようとしているのか、どのグループが人手が足りていないのか、どう手伝えばいいのかが理解できません。状況理解が苦手とはこのような場面でも表れます。

企業でいえば、プロジェクトチームをイメージするとわかりやすいかもしれません。プロジェクトチームもメンバーが少人数あるいは個々で仕事を分担していると思います。誰が何を担当しているのか、誰が担当している仕事で遅延やトラブルが発生しているのか、誰が担当している仕事に変更が生じ、それがプロジェクト全体にどう影響するのか、などの状況理解が苦手として表れます。

【2】ではワーキングメモリー(WM)と処理速度(PSI)からお話ししていきます。

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東海道新幹線車内販売廃止

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

東海道新幹線に乗った時の楽しみと言えば、駅弁にスプーンが入らないスジャータのガッチガチのアイスクリーム。そんな人も多いのではないでしょうか。私だけでしょうか(笑)

2023年10月末日で車内販売が廃止され、一部人気商品(アイスクリームやコーヒーなど)は自動販売機で販売されることになったようです。正確には『のぞみ号』が停車する駅のホーム上に設置されるようですから、『のぞみ号』が停車する駅以外では買うことすら叶わない、ということになりました。

もう二度とスジャータのガチガチアイスクリームが食べられない!わけではないのは不幸中の幸いかもしれません。

しかしながら、「新幹線車内で、あのアイスクリームを食べたい!」と思って自動販売機でアイスクリームを買って新幹線に乗るか、というと、どうもしっくりきません。

しっくりこない理由が、車内ワゴンサービスか自動販売機の違い、どうもそれだけではない気がするので、人の行動心理を考えながら「なぜ?」を考えてみました。

乗車する時間や目的にもよるとは思いますが、仮に東京〜名古屋・新大阪くらいで(もっと先でもいい)考えると、乗車するなりコーヒーやお茶という人はいても、アイスクリーム!という人は少ないように思います。

アイスクリームはいわば“おやつ”、“間食”扱いになるので、車内で駅弁を食べたい人であれば先に駅で買い、乗車して間もなく食べようとする人が多いはずです。旅行者やビジネスの出張帰りであれば『まずビール』かもしれません。子供でもない限り、なかなか『まずアイスクリーム』にはならないのではないでしょうか。

上手くできたもので、東京など始発駅から乗車した途端、車内販売はやって来ないものです。もちろん準備など車内販売側の都合もあるでしょう。実は若い頃、アルバイトで山陽新幹線と在来線の特急列車で車内販売をしていたことがあるので、何となくそのあたりは想像がつきます。

荷物を棚に上げて座席につき、上着を脱いで周りを見回したり車窓を確認して落ち着き、駅弁を広げるあたりにグッドタイミングでやってくる感じでしょうか。ワゴンサービスは往復しますから、駅弁を広げる時間なら、最初は「ビール買うか」「お茶をもう1本買っておこうかな」で、ワゴンサービスが長い車両を往復する間に駅弁タイムは終わります。

アイスクリームの車内販売は駅弁や飲み物とは違い、ワゴンサービスではやってきません。

食べ終わってのんびり車窓を楽しんだり、旅行計画を再確認したりと、すっかり車内が落ち着いて馴染みきった頃にやって来るのがガチガチアイスクリームです。「時間もまだあるし、車窓を眺めながら(おしゃべりしながら)アイスクリームでも食べようかな」と考えるタイミングを見計らったようにやって来るので、ついつい触手が伸びてしまうのですね。人の心理を突いた良い作戦です。

これが自動販売機で買って乗車となると、のんびり駅弁タイムを楽しんでいると、いくらガチガチアイスクリームでも溶けてくるわけです。まして、ホームの自動販売機で買うということは、まだ乗車する前ということを意味します。こだわりのある人は、駅の売店で買えるビールでさえも、乗車前に買うとぬるまってしまうのを嫌い、わざわざ車内販売で買う、という人もいます。

普段からデザートは先派ならまったく問題はないと思いますが、甘いものは後という人が多いだろうことを考えると、「食べたいタイミングでガチガチアイスクリームを食べる」ことは難しいように思います。

何より、時間にも余裕がありリラックスしている状態だからこそ、あんな挑戦的にガチガチなスプーンすら入らないアイスクリームを、上にあたたかい缶コーヒーを乗せたり、手で包んで温めて溶かしてみたりとチマチマ時間を楽しむことができるのです。

じわじわ溶けるアイスクリームの味を想像しながら車窓に目をやり、隣の友人と「美味しいけどホントカッタいよね」とおしゃべりに花が咲くのではないでしょうか。

自動販売機で買って乗車する、がしっくりこない理由はここらへんにありそうです。

皆さんはいかがですか?

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