『多様性』どこまで認める?【組織】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

前回、『社会としてどこまで多様性を認めるか』ということを書きました。今回は【組織】、つまり企業の中において、どこまで多様性を認めるかを書こうと思います。私どもが考えるひとつの提示であって、決してこうあるべきという意味ではありません。

組織は社会と違い、狭い世界になりますが、社会篇の中で書いた『個人の権利を侵害しない範囲内』であることは、組織にももちろん当てはまることは言うまでもありません。

その上で、どこまで多様性を組織(企業)として認めるかを考えます。

組織の場合、より社員個々人の価値観をいかに理解し、あるいは説得していくかが問われると思うので、社会としてよりも複雑な問題を孕みそうです。学校でも同じかもしれません。

例えば、結婚。今の時代、結婚観は人それぞれです。今の団塊の世代の人たち辺りまでは専業主婦が多かったように思います。つまり男性は働き、女性は家庭を守るという長年日本を覆っていた結婚観です。当時女性は就職して結婚したら退職することが一般的でした。寿退社という言葉があったぐらいです。

今は違います。経済的な事情もありますが、それとは関係なく女性もキャリアを積み、働き続けたいと考える割合が当時と比して増えています。しかし、そこで今問題となっているのは、昔の結婚観と今の結婚観の狭間で、仕事(女性)・家庭(妻)・育児(母)の1人3役の重圧を背負わされた女性たちの存在です。

これは今最もホットな問題でもあります。組織の育児に対するフォローをどう構築していくかが問われていることでもあるからです。国ができることは限界があります。男女問わず、育児しやすい労働環境を創出するかは個々の組織で考え、取り組まなければなりません。社員個々人に合った具体的な施策は難しいかもしれませんが、組織に最も大事なことは、育児しやすい職場環境であることを社員に実感し安心してもらうことではないでしょうか。

恐らく、組織にとって多様性をどこまで認めるかの必要条件は、さまざまな価値観を持つ社員に、最大公約数的安心感を与えること、ではないかと思います。心理的安全性はそのひとつの解であり手法だと思います。

一方で、組織には社風という企業文化・企業風土があります。組織規模が小さくなればなるほど、トップの考えがダイレクトに企業文化となり企業風土になります。大企業であれば、長年培われた伝統がそれに該当すると思います。いろいろな組織があって当然だと思いますが、どんな組織であれ、これからの組織に求められるのは、社員の多様性をいかに認めることができる企業文化へと進化(深化)させることができるか、だと思います。自治体も例外ではありません。

思うに今組織が直面している課題は、社員の多様性と企業文化の間にある溝をどう埋めていくか、ということだろうと思います。

例えば産休・育休を考えてみると、制度は組織にあっても取得しにくい社風であれば、その制度はお題目に過ぎず、ポーズに過ぎません。活用されてはじめて制度が活きるというものです。

もっと言えば組織にそのような制度があるにも関わらず、直属の上司がいい顔をしない、あるいは取得しないように圧力をかけてくることもあるでしょう。そのような企業文化が蔓延ったままだと、社員の多様性など到底認められることはないと推察できます。

組織としてどこまで社員の多様性を認めていくかという問題は、即ち、溝を埋めていくかは組織の文化をアップデートさせる必要があると言えます。これにはトップをはじめとする経営層の思考回路を変える必要があります。

時代に支持される企業風土をどのように作り上げていくか、という仕事は経営層にしかできない仕事だと思います。業績や戦略を考えることも大切ですが、それを実行するのは人、社員です。その社員が能力を存分に発揮するためには、企業文化、企業風土というものがかなり心理面に影響を与えます。

とにかく行動しろ、失敗の責任は部長である私が取る。という企業文化であれば、社員は恐れることなく果敢に挑戦しようとするでしょう。失敗したら怒られる、責任を追求される、と思わせる企業文化、企業風土であれば、社員は挑戦して失敗するリスクを冒そうとは思いません。それはその企業にとって長期的な視点で見れば損失に繋がることにならないでしょうか。

ベンチャー企業が元気な傾向にあるのは、組織規模が小さくトップも若手が多いことを背景に、長年培った伝統も歴史もないため、いい意味で過去に捉われず、トップをはじめ社員の多様性の活用が一応できているからではないか、と思われます。(トップと社員の世代が近いせいか価値観を共有しやすい、あるいは立場の距離感も近いため、必然的にコミュニケーションが活発になり、制度化しなくてもよい面はある。)

このように考えてくると、組織において多様性をどこまで認めるか、という問題は、長年の伝統や歴史に培われた企業文化・企業風土をアップデートしつつ、その範囲内で社員に対して最大公約数的安心感を与えることだろうと思います。

社員の多様性をどこまでも認めべきとは思いません。やはりそこには企業ごとに一定の範囲内という制約は外せません。そうでなければ、その企業としての個性が失われることになるからです。社員もそうした制約の根拠を理解することが必要です。それにはやはり、コミュニケーションが肝になってきます。

組織として多様性をどこまで認めるかは、一人でも多くの社員にいかに気持ち良く安心して働く環境を提供していくか、という問題に言い換えられます。それにはまず、トップをはじめとした経営層の思考のアップデート、次に管理職クラスの思考のアップデート、そしてコミュニケーションスキルの向上だと考えます。

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『多様性』どこまで認める?【社会】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

つい先日、LGBTQの人たちに対して首相秘書官が失言し、更迭されたことがありました。この問題がさまざなところで語られる中で度々出てきた言葉が『多様性』でした。

今となっては『多様性』という言葉自体は新しい言葉でもなく、既に耳慣れた言葉として社会的認知を得ていると思います。

ただ、ここで考えたいのは、

では社会は『多様性』を一体どこまで認めればよいのか?

という問題です。

というのも『更迭された首相秘書官が言ったことも、多様性というならば認める、許容することが多様性というものではないのか?』という議論も散見されたからです。

つまり、ある事柄に対する一方の意見は肯定し、一方の意見は否定することは多様性に反する、という論理です。

“私たちは社会として多様性を一体どこまで認めればよいのか?”この問題に今のところ社会的コンセンサスはまだ取れていないように思います。

注意してほしいのは【社会として】どこまで多様性を認めるのか、ということです。個人としての話ではないということです。つまり、個人としてならLGBTQの人たちの存在を否定する人は、いないと言っても過言ではないでしょう。今の時代、LGBTQを否定する人はそれこそマイノリティーではないでしょうか。しかし私個人としては、否定する人がいてもいいと思います。

一方でこれが社会としてとなると、どうやら違うらしいと感じている人もいると思います。社会として多様性を認めることと、個人として多様性を認めることの間にはまだまだ溝がありそうです。

例えば制度を考えてみるとその溝はわかりやすいです。一般的な男女には婚姻制度があります。婚姻すれば法的に夫婦と認められ、独身者とは違う行政サービスを受けることができます。

しかしLGBTQの人たち、この場合とりわけ同性同士の婚姻制度はありません。これは制度がLGBTQの人たちの婚姻を認めていないと考えることができます。つまり法的な結婚ができないということを意味し、その後の行政サービスも受けられないことになります。実質的には婚姻生活であっても同棲生活と同じ扱いと見なされ、法的にはお互い独身者ということです。

社会が多様性を認める難しさは、そういうことなのだろうと思います。

これは著しく個人の権利を侵害しているという見方もできます。人権侵害というと、とても大袈裟に聞こえるかもしれませんが、当事者にしてみれば、人権侵害みたいなものと感じるかもしれません。

制度は個人の権利の侵害があってはならないことに異論はないと思います。そうであるならば、社会としては個人の権利を侵害しない範囲内において、多様性を認めるとしなければ、多様性を盾にどんなことでもやっていい、言っていい、と早計に考える人が出てきかねないと考えます。

ただ思うだけであれば、憲法で内心の自由が保障されているので、例えば“アイツを殺したい”と思うのは自由です。でも実際にSNSなどで公言する、あるいは実行すれば相手の生存権を脅かし、侵害することになるので、多様性からは大きく逸脱すると言えます。もちろん法的にも罰せられます。

多様性のある社会と言っても、闇雲に多様性を認めることは危険で、多様性のある社会の大前提となるのは、個人の権利を侵害しない範囲内、ではないかと思うのです。

最初の話に戻りますが、先の首相秘書官の彼が、例えば個人として私的な友人と居酒屋で言う分には、それは内心の自由の範囲内として、これほど問題にはならないと考えます。しかし公職の立場での発言となると、LGBTQの人へのある意味公式な差別発言となり、人権侵害(存在の否定)として多様性から著しく逸脱した発言と考えます。

いずれの機会に組織(企業)の中で多様性をどこまで認めるかを書きたいと思います。

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インクルーシヴ教育を過去“お世話係だった自分の経験から考える【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

昨日はちょっと蒸しましたね。

さて、前回に続きですが、学校生活でやんわり無理やり押し付けられたお世話係がなぜ悲惨なのかは【1】でおわかりいただけたと思います。

誤解のないように明記しておきますが、私は障害を持つ子供も障害を持たない子供と同じように学ぶインクルーシヴ教育の理念に賛成です。

 実際に息子は発達障害重複(ADHD、ASDの両方を持ち合わせている)ですが、小学校〜中学校と普通級に在籍しながら人間関係やコミュニケーションなどSSTは個別支援で通級(情緒級)に通いました。そして、通級という選択をしなければ、今、何の個別支援も合理的配慮も必要なく、普通高校に通学することは叶わなかったかもしれません。

文部科学省ではインクルーシヴ教育を「インクルーシヴ教育システムにおいては、同じ場で共に学ぶことを追求するとともに、個別の教育的ニーズのある幼児児童生徒に対し自立と社会参加を見据えて、その時点で教育的ニーズに最も的確に応える指導を提供できる、多様で柔軟な仕組みを整備する」としています。

また混同されやすいのが、“障害を持つ人が障害のない人<同等な生活をする>ノーマライゼーション意識がベースの統合教育”であるインテグレーション教育です。まだまだ改善点はあると思っていますが、インテグレーション教育をもとに改善を重ね発展させたのがインクルーシヴ教育になります。

インテグレーション教育の失敗は“障害のある子も通常級に入らせて同じ環境で学ばせる”に重きを置いたことです。障害を持つ子供という部分を個々と考えず、ひとまとめにしてしまったことで、支援や配慮はひとり一人違うにも関わらず、“その子供が本当に必要としているニーズにまで辿りつかなかった”ことです。その結果、学力格差が浮き彫りになったり、悲しいことにいじめに繋がりやすいといった問題が発生しました。

同じ環境で学ばせる、ただそれだけではインクルーシヴ教育とは言えません。インテグレーション教育と同じ過ちを繰り返してしまうだけです。

スペシャルニーズを持つ彼らがどのようなニーズを持っているのか、保護者や第三者支援機関から細かに聞き取り、『学校側(教育委員会/自治体)が』足りないものや必要なものを人員配置も含め、環境整備できるのか?が第一に考えなくてはいけない部分です。

もちろんそこには、一緒に学ぶ障害を持たない子供たちへの“お世話係”のような過度な負担は絶対にあってはならないのです。

優しさや思いやりは、それを(やんわりでも)無理強いさせることからは生まれません。

極端な言い方になりますが、自発的ではなく押し付けされたお世話係では思いやりや優しさよりも、のびのび自由に友達と関わることも制限された学校生活しか送れず、窮屈さに息が詰まり、我慢を強く負わせられる責任の重さに逃げ出したくなるだけです。もっと言えば、障害者嫌いという負の感情を芽生えさせかねず、障害者への差別感情を植え付けかねません。

そうならないために、受け入れる側(自治体/学校側)の正しい理解と準備が今以上に進むことが求められます。幼い時からさまざまな障害を持つ人たちに接し共に学ぶことで得られる理解と経験は、ダイバーシティが叫ばれる昨今何ものにも代え難い大切な経験です。

インクルーシヴ教育はさまざまな障害を理由に排除される子供を作らず、学校生活に参加し共に学習することが基本理念です。

そのためには障害を持っていることで排除されがちな子供たちを同じ場所、同じやり方で学校生活を送らせることにこだわるのではなく、共生を目指すためにどのようなサポートが必要かの具体的なスキーム作りが必須です。

同時に「障害(重度含む)のある我が子を普通級に入れたい」と考える保護者が正しくインクルーシヴ教育を理解し、自分視点で「障害があっても平等に学ぶ権利がある!」と声高らかに叫ぶだけではなく、“障害がない子も同じように(お世話係など押し付けられず)平等に学ぶ権利がある”ことに目を向けてもらえるようにすることも必要ではないでしょうか。

普通小学校は集団生活の中で人間関係や勉強を学んでいきます。一部の医療ケアが必要な子供は除きますが、知的身体的に重度の障害がある場合、勉強や人間関係の前に身辺的自立が目標となります。身辺的自立とは、一人で着替えができる、最初は完璧に仕上がっていなくて失敗はあるかもしれませんが、排泄関係にほぼ問題がないなどです。

対処することはあっても、幼稚園や保育園ではありませんから、小学校普通級では身辺的自立への支援はありません。なぜなら、すべての教員が特別支援の専門教育を受けているわけではなく、身辺的自立を目指させるのは特別支援級や特別支援学校の役割になるからです。

障害を持つ子供を障害を持たない子供が学ぶことを前提にした環境に、ただ在籍させればインクルージョンではないのです。努力しても(各々がその能力や特性に応じた努力は必要だと思っていますが、そもそも無茶な努力をさせる自体がどうなのか?ですが)できないことがある、それが障害です。

障害には誰もがわかる身体的なものから、発達障害や軽度知的障害などわかりづらいものまで多種多様です。

一見奇異に感じる言動の裏には必ずその子(その人)の理由があり、原因があります。“困った子(人)”ではなく“困っている子(人)”だと考えるとどうでしょうか。

インクルーシヴ教育は教育現場を支える側の正しい理解と行動、環境作りの努力に加え、私たち保護者側にも正しい理解がなければワガママを垂れ流す自己都合“のみ”の権利をただ叫ぶ、それこそ困った保護者になってしまう危険があるのです。

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インクルーシヴ教育を過去“お世話係”だった自分の経験から考える【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

GWも終わりましたね。今週はあまり飛ばさず心身慣らしのつもりでいきましょう。

さて皆さんは“お世話係”という言葉を知っていますか?聞いたことがありますか?

この記事がなぜお世話係が問題になるのか、またそこから見えるインクルーシヴ教育の側面や課題を考える一端になればと思います。

一般的にお世話係で問題となるのは小学生時代です。

お世話係とは・・・

学校生活において何らかのサポートや配慮が必要な子供(児童)に対し、先生(学校サイドが?)が責任感が強かったり、優しくて面倒見のよいしっかりしている特定のクラスメイトに対し、公的(先生自身が「〇〇くん、△△さんのお手伝いをしてあげてね」とやんわりお世話係に任命)、暗黙の了解で先生が押し付ける(いつも同じ班やペアにされたり、近い席にされる)ことでお世話係が生まれます。

およそ小学生の子供に任せるには荷が重過ぎて自由を奪う役割や責任を「みんなと一緒に」「思いやりを持って」「優しさを」「助け合いの気持ちで」と、耳障りのよい納得せざるを得ない言い方や言葉でお世話係を押し付けます。先生に言われたら拒否できない子供の心理を利用しているようにすら見えます。

【1】ではお世話係がどのようなものか、押し付けられた子供の苦悩を、【2】ではインクルーシヴ教育の在り方や疑問点などを書いていきます。

私は小学4年生から6年生まで教師から暗黙の了解で押し付けられたお世話係でした。

A君は今でいう軽度知的障害と自閉症を持っており、こだわりが強く特定の音や匂いでパニックを起こしたり、気に入らないことや思いどおりにならないことがあると、物を投げたり噛みついたり髪を引っ張りました。普通級在籍で通級するレベルではなく支援級案件だったと思います。

当時の私は特別優しくも面倒見のいいほうでもなかったはずですが、責任感だけは強かった記憶があります。今思えば、その責任感のせいでお世話係をやんわり押し付けられたのではないでしょうか。

ノートを取れないA君の代わりにノートを取り、教科書を開いたり定規を押さえたり連絡帳を書いたり・・・彫刻刀を使った図工も危なくないように見守り、給食も仲良しの友達と食べることはできず、校外活動は絶対同じ班、ペアを組む時も当然ペアにさせられ、仲良しの友達と笑いながら一緒に下校したいというわずかな願いも叶いませんでした。

“助け合い”という言葉に縛られ(一方的に私が助けるだけでしたが)、「A君もクラスメイトなんだから、本城が我慢するのが優しさで思いやりだと先生は思う。A君だって困ってるんだから」と教師に刷り込まれ、暗黒の3年間を送りました。

一度は「給食を友達と食べたい」「下校は仲良しの友達と帰りたい」と訴えましたが、教師から「A君は友達じゃないとでも言うの?A君が可哀想だと思わないの?本城は優しさが足りないね」と詰め寄られ、何も言えなくなりました。

今なら声を出して言えます。

「クラスメイト全員が友達なわけあるか」と。

修学旅行がどうなるのか考えなくてもわかります。自由行動はA君と一緒、バスはもちろん隣り、寝る時以外は常に金魚のフン行動を求められることが・・・。

ハンガーストライキと登校拒否を続け、修学旅行参加を断固拒否した結果、ようやく仲良しグループでの自由行動と旅行中のお世話係免除を勝ち取り(A君には加配の教員が付きっきり)、最後の思い出を作ることができました。

が、根本的にコレ何だかオカシイと思いませんか?

  • 特定の誰かにだけお世話をお願いすること。
  • 公的でも暗黙の了解でも押し付けられた子供に拒否権はないこと。
  • 拒否しようものなら「優しくない」だの「友達思いじゃない」だの「〇〇君(〇〇さん)が可哀想じゃないか」だの語彙力の乏しい子供が絶対に反論できないようにやり込めること。<多分教師側は教育的指導と思っている>
  • 加配の教員が付きっきりで見守っていないと何をするかわからないほどの問題を抱える児童を特定の一人に丸投げでお世話させてきたこと。

卒業式の時にその教師は「A君のおかげでクラスに優しさが生まれ、まとまりのあるクラスになりました」などと宣いましたが、実態は私と一緒にお世話係を押し付けられたもう一人のクラスメイトは完全不登校になり転校、他のクラスメイトは私を遠巻き。「本城さん誘っても本城さんはA君の面倒見なきゃいけないからねー」と何にも誘ってもらえなくなりました。

学年が上がるたびにA君の保護者から「本城さんと同じクラスに」「本城さんと隣り同士に」と学校に配慮願いがあったそうで、小学生の私の逃げ場はどこにもありませんでした。

このままだと私の中学生活も暗黒の3年間になる!と考えた私は親に頼み込み、中学受験をして地元から離れました。男子児童のA君のご両親がどんなに頑張っても絶対に追って来られない“女子校”に。

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代理ミュンヒハウゼン症候群【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

【1】に続き、代理ミュンヒハウゼン症候群についてお話しします。

私たち心理士が代理ミュンヒハウゼン症候群を疑う時に、特に気にすることがあります。

  • (子供が)医療機関で治療をしているにも関わらず、症状が改善しない。
  • (子供を)入院や一時保護など保護者から隔離すると症状が軽減、または良くなる。
  • (子供の)医療機関受診歴は多いのに、病気や怪我のはっきりした原因がわからないままである。
  • (子供の)症状軽減、悪化に不自然さがある。
  • (子供の)病状が良くなると喜ぶのではなく、不安定さや明らかな動揺や不安が見られる。

などです。

【1】でもお話ししましたが、代理ミュンヒハウゼン症候群は一見すると“病気(怪我をした)の子供を自ら犠牲にし献身的に看護する親”に映ります。

周りからは「いつも大変ね」「子供のために偉いわね」「頑張ってるお母さん」に見えるわけです。

その“頑張っているお母さん”を創作するために、健康な子供を作為的に病気にしたり不自然と思われない範囲で怪我をさせたりするのです。専門家が注意深く観察すればバレバレなのですが・・・。

海外では子供の日々の食事に少しずつ漂白剤を混ぜていた親や、かぶれるようにボディソープに薬剤を入れていた親、子供が怪我をするように自転車に細工をしていた例などがあります。にわかには信じられませんが、実際にあったことです。

明らかに虐待とは違うのは、決して我が子が邪魔だったり嫌いなわけではなく、優しい虐待とはまた違うのですが、子供は大好きで大事だったりすることです。

ただ、子供以上に自分(の感情や思い、行動)が大切で自分が大好きだったり、親自身の生育歴からアタッチメント不全やパーソナリティ障害などが関係し歪んだ認知を持っていることも多くあるように思います。

2019年のアメリカ映画【死ぬほどあなたを愛してる】では代理ミュンヒハウゼン症候群が描かれていますので、関心を持った人はご覧になってはいかがでしょうか。

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代理ミュンヒハウゼン症候群【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

子供の虐待が報告される中で、【代理ミュンヒハウゼン症候群】という言葉が聞かれるようになってきました。

わかりやすくいうと、代理ミュンヒハウゼン症候群とは“子供を故意に病気にしたり怪我をさせ、甲斐甲斐しく世話(看護看病)する自分を装い、同情(注目)を引こうとする虚偽性障害”という精神疾患の一種です。

今回はこの代理ミュンヒハウゼン症候群について2回に分けて書こうと思います。

この『代理』の部分ですが、なぜ代理と言うのでしょうか?

詐病のように自分が病気や怪我のフリをするのではなく、多くは乳幼児の我が子に“病気である自分(詐病)の役代わり”をさせるので“自分の代理”という意味で使われます。そのほとんどが母親によるものです。

わざわざ我が子を病気にしたり怪我をさせる親などいるのか?と思いますよね。

正常な精神状態の親ならあり得ないことですが、無意識に自らが病気の子供を献身的に世話する母親というアイデンティティを求めていたり、歪んだ承認欲求などが関係し代理ミュンヒハウゼン症候群として表れます。

健康な我が子をわざわざ傷つけ不健康な状態を作り出す、これが代理ミュンヒハウゼン症候群です。

以前、入院している子供の尿に自分の血液を混ぜた母親がいました。当然病院では検査をし、原因を突き止めようとしますし治療をおこないます。しかし、誰もが「親がまさかそんなことをするわけがない」というバイアスがあり、なかなか見抜けなかったのです。

「大切な子供をわざわざ傷つける親がいるわけがない」このバイアスが代理ミュンヒハウゼン症候群を見抜きづらくしているともいえます。

実際、代理ミュンヒハウゼン症候群の母親は献身的に世話をするケースが多く、“病気の子供を必死に支える健気な母親”像に映ります。これが落とし穴になります。

自分から声を上げられる年齢にない乳幼児は生活の100%を親(主に母親)に依存しています。

ミルクをわざわざ不衛生なお湯で溶き、下痢をさせる。

沐浴時にわざと強い洗剤を使い、皮膚を荒れさせる。

以上のような報告が実際にあります。明らかに虐待ですし、実際はもっと重篤な状態に陥ってしまった子供もいます。

次回は代理ミュンヒハウゼン症候群が疑われる場合のポイントからお話しします。

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マイルドな表現

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は以前からちょっと気になっていたことを書こうと思います。

最近は何でも耳障りよくマイルドな表現が好まれているようです。

何でもマイルドな表現にすると明らかに犯罪行為であるにも関わらず、事の重大さが軽く薄っぺらくなってしまうように感じるのは私だけでしょうか。

例えば『援助交際』や今流行りの『大人のパパ活』は“売春”以外の何ものでもありませんし、万引きや空き巣、車上荒らしは窃盗、ひったくりは強盗、身体的虐待はただの暴力・暴行・傷害です。

360度どこから見ても詐欺や傷害同様犯罪なのに売春、窃盗、強盗、暴行では表現が強過ぎてダメなのでしょうか?万引きはとても軽く考えられていますが、それが10円の商品でも“お店の商品をお金を支払わず取る”行為は明らかな窃盗(=犯罪)です。

大切なのは商品の値段ではない、ということです。10円のチョコでも100万円の指輪でも同じ重さの“窃盗”(敢えて万引きなんて軽い表現はしません)です。

「たった10円くらい・・・」と思いますか?しかし、その考えはとても危険な考えです。“たった10円”すら払わずに盗む“恥ずかしい行為”が万引き=窃盗=犯罪なのです。

「わかったわよ!お金払えばいいんでしょ!払えば!!」「子供のやったことじゃない!」とスーパーの事務所の奥から漏れ聞こえたこともありますし、実際報道番組の万引きGメンなどの特集でも目にしますが、見ているこちらが恥ずかしくなります。

見つかったら謝ればいい、見つかったらお金払えばいい、見つかったら返せばいい、子供のやったことだから大ごとにしなくても・・・。

誰でも間違いや誤りはあるものですが、やらかした側には“大したことない”と考えている人が一定数いて、そのような人たちが捕まった時に前記のような言い訳、言い草をしたり居直るように思います。

そういえば、犯罪ではありませんがマイルドヤンキーなんて言葉もありましたね。ヤンキーにマイルドもハードもあるのか?と甚だ疑問ですが、私の勝手なイメージとしては、拳で語る喧嘩(武力衝突)上等派とちょいワルの差くらいなのではないかと思っています。

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またもや長時間労働による自殺

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

またもや長時間労働による自殺の記事がヤフーニュースに掲載されました。

私たちは2015年に大手広告代理店の新入社員の女性が長時間労働で自殺したことをキッカケに、2019年、働く人のメンタルケア・サポートを目的にメンタル・イデア・ラボを立ち上げました。

メンタル・イデア・ラボの運営会社である有限会社時遊区は元々は広告企画制作会社です。大手広告代理店の女性新入社員の方は同じ業界の中でもエリートで、そんな人が自殺したというニュースは時遊区にとって衝撃でした。何故か他人事とは思えず、何かおかしい、モヤモヤしたものを抱きました。そんなモヤモヤを何とかしたいというのがメンタル・イデア・ラボの立ち上げの原点です。

にもかかわらず、テレビ局の岡山放送社員の方が長時間労働で自殺したニュースは、残念な思いでいたたまれません。記事を読むと、パワハラもあったと言います。私たちはパワハラやモラハラ、マタハラも含め、働く人が

自殺や精神疾患に陥る前に何とかしたい

という思いで日々取り組んできました。そのためにはもやは個人任せにせず、

企業がメンタルの健康にもっと関心を持っていただくことが重要

だと考えています。数年来、健康が強く叫ばれ、身体的な健康には力を入れている企業が増えたことはいいことだと思っています。しかしメンタルの健康となるとまだまだ不十分で、ストレスチェックもチェック後のケアはなく、個人任せであり形骸化していると言っても過言ではありません。企業としてメンタルの健康に積極的に取り組んでいるのは微々たるものです。

弊社はこうした長時間労働で自殺したり精神疾患に陥る人を無くしたい思いで、これからも取り組んでいきます。企業の短期的な売り上げには貢献できませんが、働く人のメンタルケア・サポートは目には見えない企業の人財という資産のリスクマネジメントだと考えています。

・・・

今回自殺してしまった30代の岡山放送社員の方の無念さ、寂しさ、深い孤独感と絶望感を想像すると、心が裂ける思いでいっぱいです。ご冥福をお祈りいたします。

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 【多様性】のジレンマ

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

昨今【多様性】という言葉を聞く機会が増えました。小池都知事がよく『ダイバーシティ』という言葉を使っていますね。

この多様性、どんなイメージを持ちますか?多様性のある社会、とか、多様性を尊重する社会、など、なんとなくさまざまな価値観を認めることのように聞こえます。

【多様性を認める】、この考えは素晴らしいことだと思っています。

ただ、ふと考えました。

多様性を認めるというのなら、例えば「自分は同性愛は認めない、絶対に嫌だ」という考え方があったとしても、それは“多様性のひとつ”として認める、ということにはならないのか?と。

久しぶりに出口のないトンネルに迷い込んだような感覚です。

極端なことを書くと、多様性を認めるなら『多様性なんて認めない』という考え方・価値観があることを認めることが多様性を認めるということではないでしょうか。

なんとなくモヤモヤ〜としてきませんか?

ある考え方には反対の考え方があります。多数派と少数派、マジョリティーとマイノリティー、などそれこそ多種多様な考え方があって、今までは多数派やマジョリティーが跋扈し少数派やマイノリティーは見過ごされてきた、あるいは黙殺されてきた歴史と言っていいでしょう。しかしこれからは少数派もマイノリティーも認めること、それこそが多様性を認めることだ、と聞こえなくもありません。

個人間ではその関係性において個々の多様性や価値観を認め合うことは可能だと思います。しかし一般に言われている【多様性を認める】とは、社会全体がそういう価値観を共有することを目指しているようです。ただ、これは二面性を孕んでいると思います。一歩間違えば危険なことであり、結論から言うと相当難しいことだと思うのです。

これからの社会は少数派やマイノリティーと言われてきたものも認めていこう、という動きで、これ自体は素晴らしいと思います。一方で同時に『少数派やマイノリティーは認めない』という考え方は『排除』していく風潮をも孕んでいると思うのです。つまり、

多様性を認める社会とは、『少数派やマイノリティーは認めない』、という考え方も認めなければ(あるいは受容しなければ)、本当の意味で多様性を認める社会とは言えないのではないか?ということです。

今、コロナのワクチン接種が進んでいます。接種する側がマジョリティーになりつつあります。一方で接種できない特別な理由や事情もないのに、あえてワクチン接種をしないという人も一定数います。そういう接種しない人の価値観も認めなければ多様性を認めることにはならないのではないか?と思ってしまうのです。

実際海外では、ワクチン接種済証明書導入など、接種した人は規制を緩和するという政策に、あえてワクチン接種をしない人が接種しない自由を訴えてデモを起こしていますね。個人的には接種しない人がいてもいいとは思いますが、社会全体が接種しない人がいてもいいよね、と思うかは別問題です。こう考えると多様性を認めることの難しさを感じます。高度な民度というか、高度な受容力の土壌が社会に備わっていなければ、現実は厳しいように思えるのです。

公共の福祉や公共の秩序の維持と多様性をどう折り合いをつけていけるか、そういうことも今後問われてくると思います。そうでなければ、多様性を免罪符に悪用、乱用する輩も出てくることは十分に考えられますから。

自分の考え方や価値観がマジョリティーの側にいる時は多様性を認めている気になっていても、いざ自分がマイノリティーの側になった途端、多様性を認める社会に全然なっていないことに気付いたりします。誰もがマイノリティーの側になり得る、という意識が個々人に必要になってくるでしょう。

【多様性を認める】という方向性は間違っていないと思いますが、社会全体が本当の意味で【多様性を認める】ことができるのは、数十年、いや100年以上の時間を要すると思います。まして日本はほぼ単一民族で、海外のように多民族・多人種国家ではないだけにです。しかし理想がなければ実現はしません(実現しないかもしれない)。ただ私たちが生きている間にそういう社会になるのは無理だろうということだけはわかる気がします。

仮に遠い将来、今よりも遥かに受容力があり、多様性を認める社会になったとしても、それはありとあらゆる考え方や価値観を無条件で認め合う社会ではなく、『部分的』『限定的』に認め合う社会だろうと思います。そしてその頃には、法に抵触することは論外として、多様性を認める場合の条件(個人の価値観や考え方を攻撃<誹謗・中傷含む>、強制・強要、排除、否定しないなど)が整理され、国民的コンセンサスを満たした一定の条件下でのみ多様性を認める社会の姿を想像します。

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改めて【命】について考える【私見】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

コロナ禍で自粛が続き在宅時間が増えた人も多いと思います。そんな中、ペットを迎える人が増えているようです。

外出自粛でインターネット利用時間も増え、SNSを見れば可愛い犬猫の画像が溢れ、「可愛い!飼いたい!これを機にお迎えしよう!」と思う人がいてもおかしくありません。

現代日本で飼われている犬猫のほとんどが愛玩用のペットであり、昔のように番犬のために犬を飼い、ネズミを捕ってもらうために猫を飼う・・・は少なくなっています。家族同様大切にされ、扱われている犬猫、昔に比べて随分長寿になってきたので、人間と同じように病気になった犬猫を連れ、動物病院に通うことも増えました。

生き物を迎えるということは、大袈裟に言えば(私は当たり前のことだと思っていますが)命を預かる、その命に責任を負う、ことだと思っています。

犬猫に限らず、生き物と暮らす前に思い描いていた生活。しかし「こんなはずじゃなかった」があらゆる場面で表れるものです。生き物(の世話)に使う時間、お金が思ったより負担になることは、共に暮らし始めてわかることではないでしょうか。

生き物その種に合った環境を整え維持し、餌、新鮮な水、体調を崩せば病院、病気や怪我をすれば通院治療に自宅で投薬や看病、歳を取れば人間のように認知症様症状が表れ、あちこちで粗相、寝たきりになれば時間など関係ない介護。

ペットを迎えることは、最期まで命に責任を持ち、飼育を途中放棄しない。これは絶対だと考えています。

安易に子供のためにミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)を飼い始め、思ったより大きくなったからと池に放す。たかが金魚すくいの金魚だからと適当に扱い、ゴミのように捨てる。おとなしく飼育が簡単と聞かされ飼い始めるフトアゴヒゲトカゲ、モフモフして可愛い、垂れ耳が可愛い、短足が可愛いと飼い始める長毛猫やある種の猫たち。

小さなミドリガメがフルサイズになるとどのくらいの大きさになるか知っていて飼い始めたのでしょうか。可愛いミドリガメは肉食で、大きくなると案外凶暴になることを知っているのでしょうか。日光浴をしないのであれば、爬虫類用ランプが必要で、それがなければどのような病気になるのか、カルシウムが不足するとどうなるのか、そうさせないためには何をすればいいのか。

ホームセンターの片隅でお手頃価格で売られている、ひょうきんで可愛いフトアゴヒゲトカゲ。最初にどれだけの飼育用品が必要なのか、その生態はどんなものか。

すぐに毛玉だらけになる長毛猫の日々の丁寧なブラッシングは不可欠ですし、垂れ耳猫や短足猫は遺伝的にさまざまな障害を持ちやすいことを知っているのでしょうか。

我が家にも前記した長毛垂れ耳猫が二匹、長毛猫が一匹、日本猫が一匹います。手入れの行き届いた長毛なので、やたら高級感はありますが、いずれも可愛い盛りの子猫からではなく、ブリーダー多頭崩壊や繁殖リタイア猫、保護猫たちで、成猫で我が家に来た猫ばかりです。

親友も無類の生き物好きで、多くのユニークな動物たちと暮らしていますが、命との向き合い方はとても真摯です。

どのような生き物でも、人に飼われた途端、人に依存してしか生きていく術を失うのです。自然界ならば、病気になり歳を取れば自然淘汰されていく命でも。

大きくなったから可愛くなくなった、歳を取って臭くなった汚くなった、病気になってお金がかかる、避妊手術をしてないから(可哀想で)子猫(子犬)が産まれたけどいらない・・・自分から飼い始めたくせに、身勝手極まりない理由で保健所に持ち込まれたり、遺棄される生き物たち。

いらなくなったからと捨てるのなら、生き物を飼ってはいけないと思うのです。手間のかからない(懐きませんが)マリモくらいにしておくのが良いのでは?と思うのです。

あなたが、最初は可愛がられ大切にされていたのに、歳を取ってヨボヨボになった時に信頼していた飼い主に「汚いからもういらない」と棄てられたり、飼育放棄され餌も貰えず、世話もしてもらえなくなったとしたらどうでしょう。

人間のように細分化した感情はないと思われている一部の生き物ですが、信頼や情はあります。嫌がることをすれば嫌われますし、可愛がっていれば飼い主でなくても懐いてくれます。好き、嫌い、怖い、痛い、嬉しい。これだけの感覚、感情があれば十分ではないでしょうか。

心から尊敬する獣医師がいます。どんな小さな命でも全力で助けようとし、実際に持ち込まれる動物は犬猫に留まらず、ヘビやトカゲはもちろん、小さなアマガエルに金魚まで。日本一多くの種類の動物を診ている獣医師と言われており、我が家の動物たちも度々お世話になっています。

命を尊び助けようとするその姿勢のほんのわずかな気持ちでも、生き物を飼う人たちにあれば、今の無責任で悲しい実情を変えられる気がしてなりません。

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