生きづらさの正体

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

発達特性があると、こだわりやコミュニケーション、社会性、イマジネーションその他諸々から生きづらさを感じやすい人がいます。

また、特性ではなく違う意味で「生きづらいだろうな」と感じる人がいます。

それはわざわざ意識していなくても誰もが持っている【価値観】にガンジ絡めになっている人です。そもそも価値観は、他者の生命を脅かしたり反社会的なものでもない限り、善悪で判断できるものでも、判断してもいけないものだと思っています。

価値観はその人自身が生きてきた中で養われたものの捉え方、思考、人生の指標であり、誰もがどこかで自分の価値観を尊重されたいと思っています。しかし、誰がどんな価値観を持っているのかが生きづらさに関係するのではありません。

では、生きづらさに繋がってしまう価値観とはどういうことでしょうか。

自分にはどんな価値観があるのか、まず思い浮かべたり書き出してみましょう。正義?信頼?コミュニケーション?礼儀?思いやり?協調性?貞節?経済的豊かさ?努力?人間力?

立場や役割が違うと価値観は一層多様化します。

学生なら、入社したばかりの新入社員なら、結婚しているなら、子供が生まれたら、管理職なら、男なら女なら、経営者なら、孫がいる年齢なら、仕事が教師なら、医師なら・・・誰にも顧みられないと感じている絶望と孤独の縁にいる人なら・・・。

先ほども書きましたが、誰もが自分の価値観を尊重してもらいたいと思っています。しかし、他者と関わり合いながら社会生活を送っていると、価値観が似ている人とばかりは出会わないものです。

そもそも会社(組織)は共通する価値観をベースに人間関係を築いたり働く場所ではなく、会社(組織)の理念をベースに働く場所であり、個人レベルで相性が悪かろうと価値観が真逆であろうと、我慢(何とか折り合いをつけて)して社会生活を送らなくてはなりません。プライベートであれば似たような価値観の人を選んでお付き合いできる場合もあるんですけどね。

質問です。

あなたは自分とまったく違う価値観の人と出会った時、「自分とは違う考え、価値観だけど、それはそれでアリだな」「へぇ、そういう価値観に初めて出会った!面白い!」と考える人でしょうか?

それとも「あり得ない、フツーは〇〇するものだろう」「こういう時は〇〇すべきだろう」「〇〇しなくてはいけないと考えないものか」とつい考えてしまう人でしょうか?

後者は生きづらさを感じやすくなります。

「べき」思考が強いと、自分の「〜べき」「〜するものだ」から外れた人、異論を唱える人に対してモヤッとイラッとしがちになるからです。どこかで「自分のように考えるのが当たり前だ、自分のように思う人がマジョリティで正しい」という“自分は間違わない/いつも正しい”という自分視点しか持てなくなり、思いどおりにならない周りに対し、怒りを溜め込みやすくなるので、生きづらさを感じることになってしまうのです。

生きづらさは自分自身が作り出しているかもしれません。いつも周りにイライラしがちな人は、思いどおりにならない周りばかりを気にしたり、責めるのではなく、自分自身と向き合いゆっくり自分と会話してみてください。

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親子でも他者間でも大切、親子だからこそ大切にしたいこと

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

私は現在進行形で発達障害重複を持つ思春期真っ盛りの、面倒くさい息子を養育するシングルマザーです。

修羅場の峠は越えたように思いますが、定型と言われる子供を養育している親に比べると、やはりぶつかり合いは多いのではないかと思います。

WAISで言語は高い息子。でも、特性による認知の歪みから他者間コミュニケーションにズレを生じやすく、また障害特性ゆえに行動に親はモヤモヤイライラしてしまうのが日常です。

さすがにもう血の雨は降りませんが(笑)、減ったとはいえ言い合いになるにもこれまた日常でです。そんな時、息子は自分の部屋に私はリビングで物理的距離を取り、クールダウンします。その後は必ず「さっきは嫌な言い方をしてごめん」「私こそキツイ言い方してごめんね」「実は学校で嫌なことがあって・・・」という流れです。

思春期真っ盛りのこの時期は親に反発しまくる反面、甘えたいというアンビバレント(相反する感情などを持ち葛藤する)な時期でもあります。「母さんの言うことは正論過ぎてムカつく」と言われたことがあります(笑)可愛いさと悪魔が同居していて「ツンデレか!?」と思う毎日ですが、ふと「あー、大人の階段を上ってる最中だもんね」と思ったり。

多少落ち着いたとはいえ、壮絶な親子バトルを繰り広げていた過去を持つ我が家ですが、今の私と息子の関係はかなり良好と言えます。言い合いになる時はあっても、ほとんどは落ち着いて話ができるようになりました。時々ヘンなテンションになり、いきなりタコ踊りを披露してくれる息子に対抗して、私も息子が「お、おう・・・(汗)」な反応をするような返しをしますし、買い物には嫌がらずに荷物持ちとして同行してくれます。外食にもホイホイついて来ます。

何より、「何か困ったことがあれば、かーちゃんはちゃんと話を聞いてくれる、力になってくれる」と思ってくれているようです。ありがたいですね。

その信頼関係のベースにあるものは何なのか?を考えた時に、小さなことでも家庭内に「ありがとう」が当たり前にあること、ちょっと時間はかかっても(クールダウンする)、お互いに「ごめんね」がこれまた当たり前にあることもあるのではないかと思いました。

家族だから言わなくてもわかってくれるはず←家族は血の繋がっただけの(夫婦なんて血も繋がっていない他者)他者ですし、そもそも自分以外、世界中の人は皆他者なのですから「言わなくてもわかる」なんてあり得ません。自分以外、エスパーならわかるかもしれませんが(笑)「言わなくてもわかってくれる」なんて、傲慢以外の何ものでもありません。

家族にいちいちお礼や謝罪なんて照れくさい←恋人に面と向かって「愛してる」と伝えるわけでもないのに、何だか照れくさいの使い方は間違ってますし、大人としてはイマイチカッコ悪い考えに思えます。歳を重ねたよい大人だからこそ、他者の小さな好意や厚意に対し、意識的に「ありがとう」「すみません(ごめんね)」が言えるのではないでしょうか。

「ありがとう」も「ごめんね」も人間関係を柔らかく、他者の気持ちも柔らかくする言葉です。

これからもパートナーに、子供に、友人に。もちろん親に対しても素直に言える自分でありたいと改めて思いました。

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メンタルヘルスと語彙力の関係

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今回は標題のとおり、ちょっと違った視点で書きたいと思います。

「メンタルヘルスと語彙力なんて、関係あるの??」と思う人も多いのではないでしょうか。

私たちは日常的に日本語を使い、意思伝達/意思確認などをしながら生活を送っていますが、普段使っている表現や語彙はどのくらいあるでしょうか?改めて考えてみてください。

美味しくても「ヤバっ!美味しい!」、寒くても「ヤバい寒い!」、叱られたり注意を受けたら「ヤバ!怒られた」と、貧相な表現になっていませんか?もちろん友達同士で話す分には、それでも十分楽しく過ごすことができ、困ることはないと思います。

言語はコミュニケーションという形で他者と理解し合うためのツールであると同時に、自分の感情を視覚化するツールでもあります。

自分に責任はないのに理不尽なことで上司に(パートナーに、親に)叱られたとしましょう。語彙力がなければ「超ムカつく!」という表現しかできなくても、語彙力があれば「頭が真っ白になった後に、怒りの感情が沸々と湧き上がった」と“怒り”一つ取っても具体的に、自分の感情に一番近い表現ができます。

語彙力があることで、自分の気持ちや感情をより的確、詳細に表現でき伝えることができるということです。これはセルフモニタリングにも大いに役立ちます。

「子供が言うことを聞かなくてムカついた」

「子供が言うことを聞かなくて頭に血が上り我を忘れそうになった」

どちらがより詳細にその時の自分の怒り具合や気持ちを表しているかわかりますよね。

セルフモニタリングに情動ラベリングは感情マネジメント(アンガーマネジメントと言えます)に取り組む上で必須ですが、より細かく感情に目を向けていくために語彙力、表現力があるほうが“今の気持ち”、“その時の気持ち”に一番ピッタリくる言葉を探しやすくなるのです。

語彙力や表現力を増やしていきたいと思った時に取り掛かりやすいのは読書でしょう。興味がある分野、好きな作家、詩集など。ただハウツー本は、あまりお勧めしません。

心情を上手に歌い上げているアーティストもいますね。どっぷり歌詞にハマりながら聴くのもよいでしょう。

そして日記。

ほとんどの人は日記に“〜があった”とその日の出来事を記します。それだけでは日記ではなく備忘録です。一緒にその時の気持ちをなるべくたくさん書き出してみましょう。「ムカついた」「超ムカついた」「死ねばいいと思った」←これらだけではいけません(笑)

「怒りの感情で手が震えた」「手足が冷たくなるほどだった」「一瞬、時が止まったかのように感じた」「一瞬、何が起きたのかわからなかった」などでしょうか。小説は主人公の心情が書いてあるので、表現力の参考になりますね。

語彙力と表現力に自信が持てると、より一層他者とのコミュニケーションを楽しむこともできるかもしれません。ただ『ムカつく』だけでは、どの程度のムカつきなのか相手はわかりません。『そこまで傷つけてしまったのか』とまで思い至ることもなく、心の傷の度合いがわからず、無用な溝が広がっていきかねません。特に夫婦関係、恋人関係、親子関係、友人関係などプライベートでの関係の相手とは注意したいところです。

自分のために、そして他者との豊かなコミュニケーションのために、今一度“語彙力”に目を向けてみませんか。

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ママ友必要か問題

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

以前にも書いたことがありますが、私はママ友がいません。今息子は高校生なので、いませんでした、のほうが正確かもしれません。

社会性も高く、人見知りも皆無、人当たりも良い(悪ければ人の話を聞く仕事はできないと思います)ので、さぞやママ友も友達もたくさんいるのでは?と思われがちですが、実はママ友は一人もいません(笑)友達もたくさんはいません。

戦略的ポツンなので、参観や懇親会があり学校へ出向くことがあっても独りぼっちで、おしゃべりする“ママ友”がいなくても、息子が小さな頃に公園や児童館へ行ってあちこちにグループを作っているママ達の輪に入らなくても平気です。

子供同士が遊んでいれば挨拶はしますし、本当に当たり障りのない話をその場でするくらいのことはしますが、絶対にそれ以上のプライバシーに踏み込むこともなければ、踏み込ませることもありません。また、私からそれ以上話題を広げることもしません。

もちろん、物理的に距離があり何年も会わなくても心から信頼している長い付き合いの友人もいれば、ありがたいことに大人になってから知り合い、信頼関係を築いてきて互いを思い遣る関係になった大切な友人もいます。結果、お互い子育てをするママ同士だった、でしかなく、子供の年齢はひと回り以上も離れていたりします。

なぜ自分はママ友はいらないと思うのか考えてみました。

まずママ友ですから、仕事に趣味嗜好といった共通項の前に、子供がいる(年齢、家族構成はともかく、同じ年頃の子供がいる)のは前提条件でしょう。出会う場所は、出産した産院・幼稚園・保育園・公園・児童館・学校でしょうか。育児の悩み(夫や舅姑の悪口や愚痴?)や生活の情報交換あたりが目的のように思います。

私にとってあまり面白くありません。愚痴をこぼすのが悪いのではなく、悪口を垂れ流すのを聞くのが苦痛。

察してちゃんがとても苦手なので、意見や不満をきちんと伝えずに、ただ“見てればわかるのに手伝ってくれない旦那(や舅姑)”の愚痴や悪口を垂れ流し「うちもウチも!最低」と同調(共感ではなく)しているだけの気持ち悪さ。ナチュラルに繰り広げられる子供やパートナー、住まいや生活ぶりのマウンティングが非常に面倒。

たぶん、共通項が“育児”を取り巻く“家族関係”だけが話題の中心にあるのがつまらないのではなく、腹の探り合いや「ホントは好きじゃないけど子供が同じクラスだし」「うまく付き合わないとハブられるかも」「影響力がありそうなママだし」と不安を持ち、あっさい所で当たり障りなく表面上付き合っていくことも苦手なのだと思います。

情報交換もいらない。必要な情報は自分から調べ行動するし「じゃぁ、家族ぐるみで」など考えないし、私にはやはりママ友は要らなそうです(笑)・・・というか息子が高校生の今、今さらもうできないですね(笑)

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心理学における想像力の弱さ/欠如とは

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

イマジネーションと言われても、妄想と想像の違いすらよくわかっていない困った人もいるので、改めて想像力を認知と絡めてお話ししたいと思います。

人が考える“想像”とは「もし免許取得したら〇〇なクルマに乗りたいな」「志望校に入ったらサークルに入って・・・」や「子供が生まれたら・・・」「結婚式は〇〇でドレスはこんなのがいいな」「誕生日プレゼント、何にしようかな」のように、自分軸で考えることが多いと思います。

心理を生業としている私たちが見ている想像力は少し違います。

私たちの見ている想像力の弱さや欠如とは、どれだけ先の見通しを立てられるのか?や、他者の気持ちをおしはかったり考えられるのか?という自分軸とは異なった意味になります。

誰でも「赤信号で渡るのは危険だ(今の青信号でも危険ですが)」と知っています。では、何故赤信号で渡るのは危険なのでしょうか?もちろん青信号で走行してきた車やバイクに衝突する可能性がある、ですが、それは結果、怪我をしたり最悪亡くなる可能性もある(危険)だからですよね。

一方、表面的な怪我(痛み)は比較的想像しやすくても、これが“心”が怪我をする、になると想像力の弱さや欠如が目立つようになります。

親しみを込めたつもりの「ホント、バカだよな」や「オマエは何もできないな」は心が切り刻まれないまでも擦り傷を負わせます。「ウザい!」も同じです。

勝手に親しみを込めたつもりで無神経な言葉を吐く人は、ぶつけられた人の心が擦り傷を負ってヒリヒリすることが想像できない想像力が足りないか、欠如した人ということになります。認知機能の弱さや認知の歪み、また知的ボーダーでもこの“想像力の弱さ(欠如)”が表れているケースがあります。

待ち合わせに毎回ビミョーに遅れてきて「謝ったから大丈夫」と思っている人は「私のために時間を作ってくれた」という相手への感謝がなく、「私だったら気にならないからきっと許してもらえる」と考えてしまう人で、それも自分軸でしか考えられていません。会いたいからこそ、自分の時間をやり繰りして待ち合わせをして会おうとします。体調や交通機関の遅延などどうしようもない時は仕方ありませんし、そこはお互いさまですが。

〇〇すること(しないこと)により、自分がどうなるのか?は想像しやすくても、他者がどのような影響を受けるのか?

他者軸の想像力が備わっていないと、他者と摩擦を起こしやすくなりますし、ただの無神経で失礼な人、人の気持ちがわからない人と言われることになります。

無人島で一人暮らしならば無問題ですけど(笑)

想像力の豊かさ、自分に当てはめて考えてみましょう。

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他者に必要とされる必要

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

突然何やらこんがらがりそうなタイトルですが・・・今回はまたしても【共依存】についてお話ししようと思います。

このコラムでも以前に自己肯定感・自己有用性・承認欲求については書いています。

今回の“他者に必要とされる必要”ですが、一歩間違うと底なし沼に足を踏み入れたかのようなズブズブな共依存を生み出す、ということをお話しします。

ご主人(奥さん)にモラハラを繰り返され、心身ズタボロに傷つけられても「あんな人(妻)だけど、あの人(彼女)をわかってあげられるのはワタシしかいないから」と側を離れない奥さん(ご主人)。アルコールで他者に迷惑をかけたり、警察沙汰にまでなっているのに「彼(彼女)はワタシ(オレ)を必要としているから」と別れないカップル。「いつまでも子供で、ワタシがいないとダメなんですよ、ウチの息子(娘)」と50歳を超えた中年息子(娘)に目を細める年老いた母親(父親)。

同じ構図です。どんなにズタボロに傷ついても、ご主人(奥さん)に必要とされていることで、自分の価値を見出そうとする奥さん(ご主人)。自分が彼(彼女)の支えにならなければ、に見せかけて、彼(彼女)から必要とされることで自分を保ち、自己肯定感を上げようとするパートナー。「困った、困った」と言いながら世話を焼き、50歳の中年息子(娘)から離れられなくしている(無意識)母親(父親)。

  • 必要とされたい。
  • 必要とされなければ、自分で自分を肯定的に認めることができない。
  • 必要とされることでのみ、自己有用感や承認欲求が満たされ満足する。
  • 必要とされなければ、自分を価値がない人間だと思い込む。

共依存とは歪な支配関係だと以前お話ししました。

また、相手を過剰にサポートし相手の言うことを聞き、言いなりになる側を“共依存”イネイブラーと呼びます。イネイブラーの心理には特徴があります。

不安が強く自己肯定感が低い。自己の過小評価により他者に認められることでしか満足を得られず、好意を繋ぎ止めようと必死になり、自己犠牲を伴い、献身的に支えようとする。

自分にポジティブなこと(自己有用感や承認欲求を満たされる“満足感”)を与えてくれる人に嫌われないように、過剰に献身的になるのです。

一見、イネイブラー(過剰支援する側)が支配されているように見えますが、被共依存者(前記だとモラハラなご主人(奥さん)、アルコール依存のパートナー、中年息子(娘)溺愛で世話焼きの母親(父親))は献身的に支えるイネイブラーがいなければ、生きられなくなってしまい、結果、被共依存者もイネイブラーに依存していくことになります。

イネイブラーが先回りして過度な支援をし助けるため、被共依存者は居心地がよく、問題解決に向かうどころか望まない行動が続いたり、増加していく傾向があります。

共存は共に助け合い、支え合う健全な関係ですが、共依存は歪で病的な関係です。

自分と他者との関わり、関係性を一歩退いたところから眺め、【共依存になっていないか】を確認してみるのもよいでしょう。

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機能不全家族【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

7月最後のコラムからの続きで、機能不全家族の具体的な例をお話しします。

その前に機能不全家族の主な特徴はというと、

  • 食事や睡眠など、生きるために必要な欲求を満たせない。
  • 物理的/精神的に常に安心して過ごせない(心理的安全性が担保されていない)。
  • 人格/存在を否定される。
  • 周囲(子供の場合は養育者)から意に沿わない過剰な期待がある。

などなど、書いているだけで胸が痛くなる話です。

思春期反抗期で、私に対し自分の意思を通そうと真っ向からぶつかってきて、しかも理不尽に親に八つ当たりしまくれる息子は、少なくとも抑圧され親にコントロールされていないことだけは確かです。

それでは細かく見ていきましょう。

●親の期待に沿った時だけ褒めますが、親に一貫性がなくその時の感情次第で同じことをしても(例えばテストで良い点を取った、嫌いなおかずを頑張って食べたなど)褒める時と褒めない時がある。

●同級生、兄弟姉妹と比較する(親の言うことをきく/成績やできること・できないことなど)。→「あなたは何をやっても下手」「どうせまた失敗する」「○○さんはできるのに(ため息)」「こんなことくらいできないクズ」

●子供の前で日常的に互いを否定するような暴言、また怒鳴ったり暴力を伴う夫婦喧嘩をする。

●子供を思いどおりにコントロールしようとする(友人関係への口出し/子供の意思や考えを尊重せず、親が何でも決める)。

●過干渉:友人関係や学校生活のことを何でも逐一知りたがり、把握していなくては気が済まず、口出し/指図、命令したがる。口癖は「あなたのためを思って」です。

●人格や存在そのものを否定するような暴言がある。→「あなたなんかいなくなればいい」「いる意味ない」「あなたなんか産まなければよかった」「死ね(死んでいいよ)」「生きている価値ない」など。

あらゆるハラスメントに言えることですが、特に家庭内でおこなわれる子供やパートナーに対するハラスメントは内側から声を上げなければ表面化することすらなく、当事者だけでは解決が難しいケースがほとんどです。

立場(役職)が上だから、働いているから、給料が高いから、年上だから、親だから、男だから・・・どのような場合でも他者の人権を尊重せず、人格を否定し踏みにじることは許されることではありません。普段はこのようなことは誰もが理解していると思いますが、現実は案外横行しています。

特に家庭内においては赤の他人ではない関係性だけに何も意識せず、無邪気に(夫・妻・子供の)人格を否定し踏みにじる言動を言いたい放題なのではないでしょうか。

意思や感情、行動を尊重されること(オールイエスという意味ではありません)で、自己肯定感は育ちます。

何をしても叱らず褒めるだけの育児も、自己肯定感が尊大化したり妙な自己万能感を持つ自己愛を拗らせた人(自己愛性パーソナリティ障害)に成長してしまうことがあります。

本当に養育者の役割、正常に機能する家族の役割は重要で大切なのだと思います。

8月15日火曜日のコラムは夏季休業のため休載します。8月20日日曜日より掲載します。

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機能不全家族【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

読んで字の如く“家族として正常に機能していない家族”のことです。

機能不全家族の中で育つと、親から離れてもさまざまな場面で生きづらさを抱え、人間関係で困難さを持ち続ける人が少なくありません。

それは学業や対人関係、仕事や結婚生活、育児までその人の人生に深いトラウマを刻みつけるのです。

“親と離れたから自分らしく生きられる”

実はそう簡単なことではないのです。

本コラムでも何度か毒親や愛着について書いていますので、参照していただければと思います。

毒親〜前編:大きく4タイプ 毒親〜後編:子供は別人格の他者 生きづらさ/アタッチメント不全【1】 生きづらさ/アタッチメント不全【2】 生きづらさ/アタッチメント不全【3】愛着スタイル回避型

具体的にどのような家庭が機能不全家族、毒親と言われるのか?

家庭内で身体的・心理的な虐待・ネグレクト(育児放棄)があるなどして、家族として機能を十分に果たしていないと考えられる家庭のことを指します。

より具体的には親が子供の尊厳を無視し、まるで自分の所有物かのように思いどおりにしようと暴言、暴力を振るうケースもみられます。

過干渉で子供に意思決定を任せず、親の考えでコントロールし支配しようとするケースでは、親子共依存関係にある特徴もあります。

親の気分次第で無視したり暴言を吐いたり、普段は無関心なのにやたら過干渉になったりと親子関係が不安定なので、家庭内はいつも緊張感が漂っています。

パートナーに対して威圧的/高圧的になる人や、反対に先回りして怒らせないように自分を押し殺す人もいます。

機能不全家族で育つと主に次の2つの特徴があるように思います。

1)他者と信頼関係に裏付けられた持続した人間関係を築けない。

2)自分の感情や気持ちを素直に表現できない。

パーソナリティ障害の境界性パーソナリティ障害にも共通します。

次回はより具体的な例を挙げながら、機能不全家族について考えていきます。

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組織における心理的安全性とは

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

【心理的安全性】
最近よく聞くようになりましたね。

今回は心理的安全性を組織という視点から考えてみます。

“心理的安全性”という言葉にどのようなイメージを持っていますか?

優しさや思いやりなど何となく心地良く耳障りが良いイメージをお持ちの方が多いのではないでしょうか。
組織だと“提案が通りやすい”、“皆が話をちゃんと聞いてくれる”あたりをイメージする人が多いと思います。

イメージ先行で組織における心理的安全性の本当の意味を誤解している人もいるようなので今回改めて話をしようと思います。

改めて聞きます。

あなたが考える心理的安全性とはどのようなものですか?

何でも肯定的に受け止めてくれる居心地の良い環境、風通しが良く、皆が仲良く気持ち良く仕事ができる環境・・・。

どちらも正しい認識ではありません。

確かに、“気持ち良く仕事ができる”ことは大切だと思いますが、会社(組織)は仲良しクラブではありません。
もっと言えば、みんなで仲良く仕事をすることが目的ではありません。

心理的安全性が高い組織とは、“他者と意見や考えが違う時でも、誰に忖度することなく率直に意見が述べられる場”と定義できます。

実際、組織にはさまざまな年齢のさまざまな立場の人がいます。
現実で考えてみましょう。

あなたがやる気はあってもまだキャリアも浅く若手の立場だとして、自分よりも遥かに年齢もキャリアも上の人に対し「それは良い判断ではないと思います。なぜならば~」と、何の躊躇もなく自分の考えを発言できるでしょうか。

仲の良い先輩、可愛がってくれている上司が相手ではなく、あなたに対し批判的な人が相手であったとしても。

また、あなたが逆の立場であった時にそれを言われて嫌な気持ちになったり、その場が居心地悪くなるようなことはありませんか?
抵抗なくナチュラルに他者の意見に耳を傾けることができますか。

このように、心理的安全性が高く、自分の考えを率直に発言できる場が誰にとってもいつでも居心地が良い場であるとは限らないのです。

むしろ、心理的安全性が高く誰もが率直な意見を交わしやすい場というのは、居心地が悪くなる可能性もある手厳しい場でもあるということです。

馴れ合いと対極にあると言ってもいいかもしれませんね。

反対意見を述べる時にこそ考えなくてはいけないのが、“アサーティブである”というとです。反対意見≠喧嘩なので、喧嘩を売るではありません(笑)

アサーションスキルを身につけている組織では意見のぶつかり合いがあってもヒヤヒヤせずに見ていられますが、アサーションスキルがないと一気に場が硬直し空気が凍りつく場面を見てきました。

心理的安全性を担保するために、組織全体でアサーションに取り組んでいくことも重要だと考えています。

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認知を歪ませるもの【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

連日暑い日が続きますが、如何お過ごしでしょうか。

さて前回の続きとなります。【1】でもお話ししましたが、認知は後天的に育まれていくその人の“物事の受け取り方”です。

機能不全家族の中で育つと認知は歪みやすいこともお話ししました。

では、それ以外ではどのような原因で認知は歪んでしまうのでしょうか?

生きていく中で、何の出来事も起きずに誰とも関わらなければ、良くも悪くも体験は生まれません。

失敗体験は誰にでもあることですし、失敗体験自体が悪でもありません。しかし、モラハラ上司(あるいはパートナー)に、小さな失敗や間違いをいちいち「何をやらせてもダメだ!」「君のように無能な人間は見たことがない」「見捨てないのは私だけだよ」「何度言ってもこれくらいできないなんて辞めてもらうしかない」「そんなことじゃ、もう別れる」・・・などと否定、ダメ出しばかり言われ続けたとしたらどうでしょう。

もちろん最初は「もう少し頑張ろう」「頑張ればできるかな」と思っていても、度重なる否定やダメ出しに心は削られていき、失敗ばかりの自分、何度やってもダメな無能な自分(思い込みですが)に自己肯定感はダダ下がります。

「どうせ何やっても私(オレ)なんてダメなんだ」と自分に諦めてしまします。

何かにチャレンジする機会があってもツラい経験の積み重ねから「自分なんかどうせまた失敗するに決まってる、自分はクズだ」と考えてしまい、踏み出すことができなくなるのです。

失敗する/間違う=自分は無能なんだ、という認知の歪みに繋がっているのがおわかりでしょうか。

他者を信じられない人は、信じられない根底に“裏切られる怖さ”を抱えているケースも多く見られます。誰でも傷つくのは嫌ですし、裏切られるのはもっと嫌なものです。

お付き合いする度にパートナーに裏切られてきた過去があると、無意識に「どうせまた裏切るんだろう」と思ってしまい、連絡がつかない、LINEに返事がないだけで「浮気しているに違いない」「嫌われたんじゃないか」と考えます。

自分の不安や認知の歪みを客観視できないことで、相手の都合を考えられず鬼電鬼LINEをし、本当に嫌われて終わります。←やっぱり私は嫌われるんだ/裏切られるんだ、という負の経験を積む結果になる。

パートナーだけではなく交友関係にも当てはまりますね。

過去、プライベートで自分のタイミングで連絡がつかない、と鬼電鬼メールしてくる人がいました。

「本当は私のこと、どうでもいいと思ってるでしょ?」

「メールくらいすぐ返せるのにメールくれないなんて私のこと嫌いでしょ?」

「私のこと、心配じゃないんでしょ?」

と、こちらの都合はマルっと無視です。

「きっと忙しいだな」「手が空いたら連絡来るだろう」という認知だったら、こうはならなかったはずです。

対面カウンセリングやセッション中には、それが誰でもどんな用件でも一切レスはできませんし(携帯を見ません)、寝ている時にも当たり前にレスはできません。仕事中などはすぐにレスを返せないことは多くの人が経験していると思います。

付き合いきれなくなり“お付き合い終了”となったわけですが、最後に言われたのが「結局ハルちゃんも私のこと裏切るんだ・・・」でした。

寝込むほどげんなり疲れたのは言うまでもありません。

認知の歪みは自分を縛りつけ、苦しめるだけでなく、人間関係も破壊しかねません。時々「この受け取り方って、一方向からの思い込みになってないかな」と意識してみるとよいかもしれませんね。

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