やわらかな伝え方で不愉快な気持ちにならずケンカなし

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

頼み上手は頼まれ上手とも言います。上手に頼めることは頼みやすい空気に繋がるのかもしれません。

パートナーはASD孤立型なので、言葉にしない『察してほしい』気持ちを察することは苦手です。

私は“察してちゃん”タイプではないので、「暇なら〇〇してくれてもいいのに」「言わなくてもそのくらいわかるでしょ」「普通は〇〇するものじゃないの?」なんて気持ちは微塵もありません。

付き合いも長いので知識と経験から行動(思考/認知)パターンをある程度理解していることもあります。

パートナーがASDでもそうでなくても、相手が自分とどんな関係にあっても、頼みたいことがある時にはお互いがやわらかな気持ちでやり取りできるコミュニケーションのコツというものがあります。

自分目線しかない察してちゃんにならないのはもちろんですが「〇〇やって(やってよ)」というニュアンスより「これやってもらっていい?」という言い方(お願いの仕方)のほうが受け取る側はやわらかに受け取りやすいと思います。

「(雨降りそうなんだから←心の声)洗濯物取り込んでよ」よりも「雨降りそうだから洗濯物取り込んでもらっていい?」のほうがやわらかく感じませんか?

ゴロゴロしている相手にイライラモヤモヤしながら(言葉にしなくてもそう思っているだけで、空気や口調には表れるものです)、「掃除機かけてるんだからどいてよ」より、「掃除機かけるから避けてもらっていい?」のほうがやわらかな気持ちになる、ということです。

ゴロゴロしているのは、言うほどではなくても体調の具合があまり良くないのかもしれませんし、夜遅くまで仕事や作業をしていてボーッとしているのかもしれません。それが明け方までゲームをしていたのなら私でもモヤモヤしてしまうかもしれませんが(笑)、でも口ではやはり「掃除機かけるから避けてね」です。

因みに、私のパートナーは体調不良ではなくとも、朝起きて約2時間はボーッとして使いものにならず、コーヒー飲む?という問いにさえ「うーん」と答えることが精一杯のようです(笑)こういう時にうっかりちょっと込み入った話をしようものなら、「今ダメ、思考力ない、全然頭に入らない」と言われます。その約2時間はテキパキ動くことなどできないことは言うまでもありません。体は起きていても脳はまだ寝ている状態のようです(笑)

頼み方に“押し付けられてる”、“命令された”、“指図された”ように感じるとモヤモヤする人は多いですよね。相手によっても私もそう感じます。

【頼む】とは多少違いますが、実験で息子への声かけの時、

「早く薬飲みなさいよ」→「先に薬飲もうよ」

「スマホルール守らないとダメ!」→「スマホルール覚えてる?」

「脱いだ衣服は畳んでよ!」→「衣服畳んでおくと着る時、気持ちいいよね、畳もうか」

に変化させると、あら不思議。よほどのことがない限り、どちらも不愉快な気持ちにならず行動できるのです。

相手がどう受け取るか?は、受け取った後に生まれる感情に繋がり、行動変容にも影響を及ぼすということです。行動変容にはさまざまなアプローチがある認知行動療法が有効なのはもちろんですが、コミュニケーションから考えてみることもとても大切だと思っています。

職場でも部下や後輩に頼む時に大いに役立つと思います。気持ちよく働きたい気持ちは誰にでもあると思います。上司や先輩の物言い一つで、部下や後輩が少しでも気持ちよく働けるかがかかっている、と言っても過言ではないかもしれません。そういうことが意識的、無意識的にせよ、できている組織やチームは、多分雰囲気が良いはずです。

混んでいる電車から降りようとしている人から「どけ!邪魔だ!」「どいて!」、ただただ手の甲や肘でグイグイ押される、舌打ちされる・・・よりも「すみません、降ります」「すみません、通してください」のほうが気持ちがやわらかになりませんか?そう言われた側の乗客達は、経験上ほぼ100%、通り道を空けてくれようとしますね。

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本当の感情や思いは言葉の裏に潜む

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

人はすべての思いや感情をなかなか言葉にしません。なので、言葉の裏にはいろいろな思いや感情が隠されています。

反動形成でもお話しましたが、言葉にしないその裏にあるものは、

  • 心配をかけたくない。
  • 手間をかけさせたくない。
  • 嫌われたくない。
  • 生活(仕事)に支障が出る。
  • それくらい汲み取ってほしい(察してちゃん)。
  • 面倒くさい。

など、相手との関係や距離の中で、意識的、無意識的かは関係なく、さまざまな複雑な思いや願望、思いやりや甘えなどが交錯しているものです。

だったら思ってることを言えばいいんじゃないの?』

そう思う人もいると思います。

仮に、皆がみな、自分の感情に正直(これは大切なことですが、それは自分の感情に“自分自身が”素直になることで、必ずしも他者に向けてではありません)に思っていることすべてそのまま言葉にすると、人間関係ではどのようなことが起こるでしょうか。

あなたがやらかしたわけではなく、上司の指示が曖昧だったため起きたミスを責任転嫁/理不尽な理由で「ホントに君は何度同じことを言わせるんだ!」と皆の前で叱られたとしましょう。相手は上司という立場であり、関係が悪化すると仕事がとてもやりづらくなります。心の中では『うっせぇハゲ!テメェの指示がわからな過ぎなんじゃい!』と思っても実際には「申し訳ありません」と謝るしかありません。心の声を口に出したらどのようなことになるのか、火を見るより明らかなのがわかるからです。

ポジティブなものだけではないのが感情や気持ちですから、受け取る側がどう受け取るか、感じるのかを考えずにそのまま正直に口にしたとすると、果たして円滑な人間関係が築いていけるでしょうか。

相手には「無礼だ」「無神経」「思いやりがない」「自分勝手」と映ってしまいます。たとえあなたに相手を不快にさせよう、傷つけようなんて気持ちは1mmもなく、『思ったことを言っただけ』であってもです。

とても簡単な例を挙げます。

両手に重たい荷物を持っている彼女に「大丈夫?」と聞いたとします。

「う〜ん・・・大丈夫、重いけど・・・。」と返ってきたら、それは本当は大丈夫ではないのです(笑)

『持ってくれたら嬉しいな(助かるな)』で、この「・・・」の部分に隠されているのが言葉の裏にある思い、ということになります。

大丈夫だって言ったから持たなくていい、ではないということです。この場合、「重そうだね、持とうか?」が言葉の裏を読んだコミュニケーションの正解になります。

もちろん、お互いの距離が近くなり付き合いも長くなれば「重いから一つ持ってもらえる?」と言えるようになると思いますし、「僕が(わたしが)持つよ」と言いやすくなるでしょう。

この事例は職場でも当てはまるのではないでしょうか。締め切り間近にも関わらず、まだ終わる目処が立っていそうもない人、残業が多い人、あまり休めていない人などには「大丈夫?」と声をかけたり、逆に声をかけられたことはありませんか?仕事内容によっては手伝えたり、手伝えなくても、相手の「うん・・・大丈夫・・・」の言葉に隠れた「・・・」を感じ、励ましの言葉をひと言ふた言かけたことはあるのではないでしょうか。例えば「このプロジェクトが終わったら飲みに行こう」「週末、美味しいものでも食べに行こうよ」などと。

また、「〇〇やっといてね、わかった?」「・・・わかった」

なんて場面も結構あります。ノンバーバルに目を向けると口を尖らせていたり、目を合わせなかったりソッポを向いている時があります。思いっきり“異議あり”or“不満”のサインです。

言葉の表面だけを拾うと「わかった、って言ったじゃない!」になります。だいたいこの「わかった?」「・・・わかった」の言葉の裏(・・・の部分)には「うわメンドクサー、わかったって言っておこう」が見え見えに隠れているのがわかると思います。

人の言葉の裏には隠された本音や気持ち、思いが隠されているものだということを頭の片隅に入れておきましょう。

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リモートワークで在宅時間が増えた結果、ペットに悲劇が起きている事実

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

リモートワークが増えたことで在宅時間も増え、「この機会にペットも飼おう」と考える人が増えました。生き物は生活に潤いを与えてくれますが、今の生活にプラスして手間もお金も掛かります。

リモートから通常勤務になった時、あるいはライフステージの変化まで見越して飼育をスタートしている人がどれほどいるのでしょうか。

生き物ですから怪我をしたり病気にもなりますし、いつまでも愛くるしい仔猫や仔犬のままではなく、当たり前に老いもします。人の思い通りにもなりません。←うるさいから夜は鳴かないで、抜け毛は掃除が大変だから毛が抜けない犬(猫)がいいなど。

  • 小さい時は可愛かったけど、大きくなったらそうでもない。
  • 散歩が面倒になった。
  • 毛が抜ける散らかる。
  • カーペットを汚した。
  • 粗相が多い。
  • 臭い。
  • 大きくなったら可愛くない。
  • 鳴き声がうるさい、世話が面倒。
  • 旅行に行けない。
  • なつかない。

などなど。

自ら里親を探す人はまだいいほうで、捨てたり保健所に持ち込む人(人でなしと呼ばせてもらいます)が後を絶ちません。避妊去勢をせず飼育し、頭数が増えたから捨てる(CMにもありますが「誰か優しい人に拾ってもらってね」は犯罪です<動物愛護法違反>)。以前にも書きましたが、生き物は人の手で飼われ始めた時から人に依存してしか生きていく術を失います。

この意味を「野良猫として生きていけるじゃん」と思う人は、行間の読めない残念な頭の持ち主か想像力が欠如している(あるいは想像力がない)人です。

ペットを飼うのは私たち<人間だけ>です。人間のエゴでしかない“癒しのためにペットを飼う”という行為に“動物たちを付き合わせている”だけに過ぎません。

我が家にも猫が4匹いますが、猫たちは多頭崩壊現場からレスキューされた保護猫や、保健所に持ち込まれる寸前だったブリーダー飼育放棄猫で可愛い盛りの仔猫からではありません。

酷い扱いを受けていて、我が家に来た時は人間不信の塊で常にビクビクしていた大人猫。迎えるからには二度と不幸な目に遭わせず、終生飼育の覚悟で迎えています。換毛期にはどんなにブラッシングしても部屋は大変なことになるので、ブラッシング→コロコロを日に何度も繰り返します。

洗濯物にも寝具にもコロコロ、出かける前には親子でコロコロ、嫌がらないので猫たちもコロコロ。一般家庭でのコロコロ消費量は日本一かもしれません(笑)

ペットには私たちと同じ“いのち”があります。人間のように複雑に細分化した感情はありませんが、【痛い、怖い、苦しい、寂しい、嬉しい】感覚や感情はあります。愛情を持ち、世話をし、共に生活を送っていると信頼関係を築けますし、なついてもくれますが、嫌がることをしたり世話を怠けると嫌がらせ(?)をすることもありますし、なついてくれません。

最期まで『いのち』に責任を持ち、飼い続ける覚悟がなければペットなど迎えるべきではないと考えます。犬や猫は長い場合15〜20年は生きますから、子供一人を育てる時間と同等な飼育期間が発生します。瞬間的な可愛いという感情だけでは、到底最期まで飼い続けることはできない時間ではないでしょうか。その時間は飼い主自身にとってもいろいろなことが起こり、ライフステージも十分変わり得る時間です。それでも飼い続けていく、という覚悟と責任が要求されることをよくよく考えてほしいと思うのです。

私のパートナーも猫を3匹飼っていますが、3匹とも飼い始めて16年になるそうです。私が飼っている猫たちよりも活発で、部屋の壁に登ったり爪研ぎをするので、壁紙はボロボロです。それでもパートナーは、元気な証だ、猫を飼うとはそういうことだ、とサラッと言います。

そういう覚悟と責任に自信が持てないなら、苔やマリモにしておくか、今流行りのペット型ロボットにしておくことをオススメします。

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生きていく中で一番重要なスキル

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

見た目や価値観の違い、仕草や話し方、声など誰にでも苦手なタイプや相性が悪いと感じる人はいると思います。

「誰とでも仲良くしましょう」は園児だけに通用するもので(それを強制されるのが園児〜小学校低学年)、大人になれば相手が苦手なタイプでも「縁を切れない関係上」「仕事だから仕方なく」という場面が増えます。

プライベートであれば自分がある程度取捨選択できるのと、大人になるまでに荒波に揉まれ対人スキルも上がるので、相性が合わない苦手な人とも“それなり”の付き合い方ができるようになるものです(嫁姑など永遠のテーマはまた別です(笑))。

でも苦手な人ばかりだと人間関係のストレスは半端ないと思います。

往々にして苦手な人の言動や行動は目に付きやすいので、些細なことでモヤモヤしたりイラッとするものです。

うまくリフレーミングしたり、無理やり見方と認識を変えて気持ちのどこかに放り込むしかなくなります。でも生理的に苦手となると、そうは言ってられないかもしれませんが・・・。

ただ、どんなに苦手な人がいても、そのほとんどは“あなたの大切な人生に影響を与えるほどではない取るに足らない、躓きもしない道端の小さな石ころ程度”の存在です。

例えば、いちいちマウンティングしていくる人には「マウンティングが生き甲斐なんだ、人間ちっさ!」「マウンティング選手権あったら上位入賞間違いなし!」と心で呟きながら「凄いですね〜、さすがです」「私にはとても真似できません」をループしていればいいですし、人の悪口ばかりの人には「うんうん、不満ばかりでつまんない人生で可哀相」「人間生き方が顔に出るよねー、残念!」と心で呟き、くれぐれも巻き込まれないように口では「へぇ〜」「ほー」「ふ〜ん」を能面リピート(笑)。

いちいち反応してあなた自身の貴重なエネルギーや時間を無駄にするのは勿体ないですよね。エネルギーバンパイアにエネルギーを吸い取られないようにして、無益な時間を極力低減したいものです。

何が言いたいかというと、

人生に必要なスキルは『スルースキル』なんだな、

ということです。

いちいち人の話に「でも」「だって」「だけど」の否定でしか返してこない人にイライラするより、「お!出た3D星人」と受け止め(受け入れる必要なし)、目の前で3D星人の毛穴の開きや鼻毛探しをしながら話半分で聞いたほうが精神衛生上良さそうです(笑)

※3D:スリーディーとは読まず『さんディー』と読む。

まるでストレス解消の八つ当たりのようにどうでもいいお小言がグチグチ始まったら「おー、怪獣オコゴトン到来!」で、眉間にシワの数を数えたり、頭を垂れ反省しているフリをしながら床の埃の動きや「マントルって深さどのくらいからだっけ?」と華麗にスルーすれば良いのです。心の中で相手の靴の手入れ具合を評価するとかでもOKです(笑)

因みに私の苦手なタイプは、「あ〜、間に合わない〜、“アセアセ”」「これ美味しい〜“モグモグ”」「お願いしま〜す“ペコ”」と全部口に出す“じぶんマンガ”な人、それから「でも」「だって」「だけど」の3D会話の人です(笑)

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解がないのもまた解

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ゴーデンウィークは緊急事態宣言などで、旅行はもちろん、大した外出すらできなかった人も多かったのではないでしょうか。

今回は『解がないのもまた解』ということで、数学のような標題ですが、生きていると解があることのほうが少なく、解がないことのほうが多い気がします(笑)人の数だけ解があり、また立場によっても解は異なりますね。

会社だけではなく、パートナーに友人、親子関係と身近には距離や関係性の違う多くの人間関係が存在し、私たちはそれらの人間関係に取り巻かれて生活しています。

今回は親になれば誰もが直面する“親子関係”について考えてみました。

コラムでも何度か書いていますが、どんな名家でも子沢山家庭でもシングル子育て中であっても、共通することが、“子供は親の持ち物”ではない、ということです。もちろん親の夢を叶える“道具”でもありません。

どんなに外見や気質が似ていても、親とは違う人生を歩む(歩む自由と権利がある)、認知も感情も違う、血の繋がりが(しかない)ある別人格の他者だからです。この“血の繋がり”というものが厄介なところでもありますが。

私自身、子を持つ一人の母親ですから「〇〇のように育ってくれたらいいな」くらいの漠然とした子供に対する期待はあります。私の子育てのベースにあるのは【自由を主張するなら自由に伴う大いなる責任を知ること。義務と権利は対であること。努力は自分がするもの、評価は他者がするもの。】を教えることです。

発達障害である息子は、定型と言われる子供とは違う苦労がありますが、心掛けていることがあります。“どんな激しい喧嘩をしてもクールダウンしたら親もきちんと謝る”ことと、忙しくても手を休め時間を作り、“丁寧に話を聴く”“子供の意思確認をし尊重する”です。

現在中学生で思春期真っ只中の息子とはぶつかり合いも多く、掴み合い寸前の激しいバトルを繰り返していますが、困った時や苦しい時は私に話をし、頼ります。普段は“返事はまずNOで”が基本のようですが、どうやら「何かあったら母は力になってくれる。話をちゃんと聞いてくれる、母は自分の味方だ」とわかっているようです。

親として「〇〇すればいいのに」と思うことは多々あるのですが、親の経験値から話をすると「母さんの言ってることは正論過ぎてムカつく」と食って掛かられるので(笑)、今はゆるく傾聴しながら「君はどう思うの?」「なぜそう思うの?」「だったらどうしたい?/どうしたらいいと思う?」と、とにかくアウトプットさせることで一旦外に置き、なるべく冷静に思考が整理できるように、を心掛けています。

育てたように子は育つと言われますが、この接し方が【解】なのかわかるのは、まだまだ先だと思います。

巷で話題の“毒親”にはネグレクトやわかりやすいさまざまな虐待はもちろんですが、「いつまでも子供は子供のまま」と手取り足取り過干渉で、無意識に子供の自立を阻む“優しい虐待”タイプの親もいます。

それを愛情と勘違いし、無意識に優しい虐待を続けていると、子供は思考することを学べず、決定を他者任せにする“自己決定”ができないまま成長し、自己表現ができないと同時に責任を負うことを学べないまま成長します。

泣くことでしか意思表示ができない何もできない赤ん坊から、自我が芽生え泣く以外の意思表示ができるようになり、言語習得が進むと反論し、可愛げなく猛烈に反発するようになります。人生経験値の浅い子供の自己決定は時として大失敗します。当然まだ責任など負えませんから、取れる責任ならば親がその責任を負い、子供はしでかした失敗で傷つき落ち込みます。

親が道をならし怪我をしないように平坦に整えるのも愛情なら、本人が歩きたいなら敢えて凸凹の道を歩ませ、転んで傷ついて落ち込んだ時に手を差し出すのも愛情だと思うのです。

失敗してもできることを増やしていくために、いつまでも同じ手の差し伸べ方ではなく、少しずつ手を放していく。糸の切れた凧にならないように“見守る”ことの大切さ、“信じる”ことの難しさを改めて感じながら、毎朝新しい気持ちで息子と向き合っています。『手は放しても目は離すな』と誰かが言っていたことを思い出します。

・・・ときれいにまとめたいところですが、新しい気持ちで朝を迎え顔を合わせた途端、相変わらず「スマホを取る前に薬飲んでね」「後で!」「君の忘れっぽさで後は二度と来ないから今飲んで!」と言い合いをしているのが日常です(笑)

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