「フツー」という言葉が多様性を阻害する?多様性とは方言!?

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

タイトルにもある「フツー」は漢字で書くと「普通」です。辞書には、特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること、また、そのさま。とありました。

私たちが日常無邪気に口にしている「フツー」は、辞書で言うところの「それが当たり前であること、また、そのさま」という意味合いで使っていることが多いのだろうと思います。

「フツーさぁ、こうしない?」「フツーこう思うでしょ」「フツーはやらないな」「フツーこうするもんでしょ」「フツーはこうだよね」「フツーこう考えるよね」などなど、誰もが一度は口にしたことがあるフレーズではないでしょうか。

ごく親しい間柄で口にすることはよくあることで特に問題ないと思いますが、職場で口にすると、ちょっと問題になりそうというお話です。もし、職場で上司や先輩が上記のような発言をしたら、部下や後輩はどう思うでしょうか?

部下や後輩がもし上司や先輩とは違う考えを持っているとしたら、彼らは「えっ!?オレ、フツーじゃないんだ」「えっ!?わたしっておかしいの?」と心の中で呟くかもしれません。それはつまり、まともに意見交換することなく、彼らは何も言えなくなることを意味します。

一旦相手の言うことに耳を傾けた上で自分の考えを伝えるというワンクッションを経た上であれば、相手は納得することもあるかもしれませんが、いきなり「フツー〇〇でしょ」と言われると黙ってしまう・・・それは面倒なヤツと思われたくない、機嫌を損ねたくない、あぁこの人に言っても無駄だ、などの心理が強く働くからだと思います。

そういう企業風土は、いつの間にか企業全体の風通しの悪さに繋がると考えられます。案外、この「フツー」という言葉が従業員の多様性を阻害する一因となっているのではないか、と思うのです。小さなことかもしれませんが組織全体で蔓延しているとなると、誰に何を言っても無駄、という一種の諦めを生み、組織全体の活性化とは真逆の力が働きやすくなると思うのです。

あるアイデアや意見、あるいはその組織の慣習とは違う行動を取った時、「アイツはフツーじゃない」「ヘンなヤツだ」と思われることが怖かったり、人事考査を恐れたり、あるいは報復人事が怖くて言わなくなる、行動しなくなる、これは意図せずとも多様性を暗に認めない裏返しとも言えます。そして知らず知らずのうちに組織が硬直化していくことになります。

そう考えた時、私たちが無邪気に口にしている「フツー」という言葉は、案外多様性を認める伸びしろをを阻害している最大の要因かもしれないと思いました。最も身近で最もポピュラーな「フツー」という言葉だけにです。安易に「フツーこうするよね(考えるよね)」などと言う時、それは同時に「そうしないのは(そう考えないのは)フツーじゃないよ」と言っていることと同じです。

直接「フツーじゃないよ」と言ってしまうと、相手に疎外感を与え、ある意味差別的です。でも安易な「フツーこうだよね(考えるよね)」も実は相手にしてみれば“あなたのフツーを相手に強要し、無理やり同感させている”ことになり、相手に違和感や疎外感を与え、失望させているかもしれず、無邪気(無意識に)な小さな差別と考えた時、この「フツー」という言葉の底知れない怖さを感じるのです。

同じような価値観を持つ間柄では良しとされても、組織など必ずしも同じような価値観ではない人たちが集まっているオフィシャルな場所で口にすると、深刻な事象(自由にモノが言えない空気、風通しの悪さ)を生みかねないと思うのです。これは発覚するような性質の事象ではないのでわかりずらく、はっきり目に見える事象でもないだけに深刻度は重大です。何となく風通しが悪いという『何となく』なものなので、“自分だけがそう感じているのかもしれない”と思うとやはり迂闊に人には相談できない、ただモヤモヤしたり悶々とするしかないのがオチではないでしょうか。主観的な感覚で客観的な証拠のようなものがないから厄介です。

例えば今日、明日、先輩や上司の「フツー〇〇だろ」と何回聞いたかカウントし、その時自分はどう思ったかを意識してみると面白いかもしれません。そして『自分はそのフツーには同感だ(同感しない)けど、同感しない(同感する)人もいるかもしれない』とちょっと想像してみるのもいいかもしれません。

時々「フツーって何だろう?」という言葉を耳にします。人それぞれ思考や性格、価値観が違うので厳密にはフツーはあり得ないのですが、私個人が考えるに『フツー』とは、共通語みたいなもので、どこの出身者であっても理解できる言葉が共通語だとすれば、誰であっても考えることやおこなうことは大体同じであろうことが『フツー』と見なされ、逆にその土地の出身者でないと理解できない言葉が方言だとすれば、その人の考えることやおこなうことは独特であるがゆえに『フツーではない』と見なされてしまうのかなと考えてみました。

多様性とはこの方言の部分を、共通語に翻訳しないで方言のままでいいよ、ということなのかもしれません。話している相手に方言で言われると「それどういう意味?」となります。意味を聞いて「へぇ、そういう意味なんだね、面白いね」となりますよね。多様性とはまさにその感覚だと思うのです。「へぇ、そういう考え(見方)もあるんだね、面白いね」というコミュニケーションスタイルが個人間を超え、広く社会に浸透して初めて多様性のある社会と言えるのかなと思うのです。特に東京は地方出身者のるつぼ。あなた自身の出身地の方言を大切にするように、相手の考えや価値観を大切にする姿勢を意識すれば、無邪気に「フツーさぁ・・・」という言葉は出なくなるかもしれませんね。

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カースト制がないこの国に存在する謎のカースト

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。少し間が空いてしまいました(笑)。

タイトルの謎のカースト・・・ママ友カースト、スクールカースト、本来の使われ方とは違う意味で、○○カーストというものを見かけます。

自分がどの立ち位置にいるのかを無意識下で常に意識し、上層カーストは下を見下し、カースト落ちしないように必死で、中間層カーストは上層カーストの様子(ご機嫌?)を伺いつつ、下層カーストでなくて良かったと胸を撫で下ろし、下層カーストは大人しくしながら、その外側に位置する(ような)アンタッチャブルにはなりたくないと下を見る。・・・というのが私が知る、カースト制のない国にある謎のカーストの認識です。

息子に「スクールカーストってわかる?」と聞いてみたところ「うん、わかるよ」とのこと。今回は息子にスクールカーストの実態を聞き取りしてみました。飽くまでも息子の通う中学校の、息子が感じるスクールカーストになります。

当時はよくわからなかったみたいですが、小学校高学年ぐらいからはあったと言います。それが中学になると顕著になってきた、と。スクールカーストはどのような子供たちがどこのカーストに位置するのでしょうか。

息子の通う中学校は普通の公立ですが、近隣の中学校に比べ礼儀作法や校則が厳しく、そのせいが学校訪問するとどの生徒たちも立ち止まって頭を下げ、元気よく挨拶をしてくれます。少しでも制服を着崩していたり、髪を染めてるようなヤサグレてしまった生徒は一人も見かけたことがありません。見かけだけ、ですが。

飽くまでも息子が通う中学校、息子の主観になりますが、トップカーストにいるのは“成績が良い”“スポーツ万能”もしくはその両方を兼ね備えている子供たちらしく、クラス委員や体育委員、生徒会の主要役員をやっていたり、声も大きく、クラスの雰囲気をガラッと変える力(?)がある目立つ子供たちだそうです。ヤンチャと言われる子供がいない中学校だからでしょうか。ちなみに女子にそのような生徒はいないそうです。

息子が1年生の時は登校渋りが出かけてヤキモキしましたが、2年生になって一人一人を丁寧に見てくれる担任になったことと、たまにふざけることがあっても、まとまりのあるクラスでクラス全体が仲が良く、イジメもなく居心地がとても良いそうです。・・・なのにスクールカーストがある不思議。

息子自身は中間層カーストの、そのまた真ん中ぐらいと自覚していて、クラスのほとんどがこの中間層カーストに位置するそうで、その中に“班”のような仲良しグループが幾つもあり、その中を行き来している子ばかり、クラスではおとなし過ぎず悪目立ちし過ぎない、平均的な子供たちが集まっている、と。

仲が良いらしいクラスに存在する下層カースト、そこにいるのは“ふざけ過ぎる子”“面倒くさい子”“面白くない子”“暗い子”“クラス対抗で協力しない子”たち。こんなくだらないことが理由で下層カーストとは随分と乱暴で理不尽です。

下層カーストの子供たちが何か発言しても周りの空気がシラっとしたり(アクションが薄い)、給食のおかわりは一番最後にされたりするらしいのですが、無視されたりイジメがあったりはないという。

誰がどことはっきり明記されてはいないものの、暗黙の空気みたいなものがあって、誰もがそれを意識しながら学校生活を送っているように見えるらしいのです。休み時間を過ごす場所もカーストにより違うらしく、上層カーストの生徒たちは教室の後ろに溜まり、中間層カーストの生徒たちは自分の席周りやグループの生徒たちの席、下層カーストの生徒たちは廊下や教室の端、図書館にいることが多いとか。私が知るイジメがあったりクラスが荒れたりするスクールカーストとは違い、随分ほのぼのとしたカースト。

どの社会にも“おとなしい子(人)”はいるもので、それがただただ声が小さいとか人見知り、どうでもいいことは自己主張しない、自己主張をするのが苦手な子、他者にあまり関心がない・・・など理由はいろいろあるもので、時間をかけると仲良くなれる子、ということも多いですよね。

5人に1人がHSP、HSE(HSS型HSP、HSEという社交性があるHSPもいます)と言われる時代、当然子供たちの中にもいるわけですが、子供はHSCと呼ばれます(C=Childの「C」)。しかし、

HSPという医学的な診断名はなく、心理学的には“気質”として扱われます。つまりHSPは精神疾患でもなく、発達障害でもないのが現状です。

私はHSPについては部分肯定派なのでそれについてはまたの機会に。

息子が話していて気になった言葉があります。

「普通にしてたら中間層にはいられるんだよ」

普通、普通・・・。普通って何なのでしょうか?

中央値、平均値みたいなもの?普通というからには何らかの基準があるのでは?その基準はどこにあるの?誰が作ったの?

普通から外れたら中間層(大多数、マジョリティーと理解)には入らないの?普通じゃなきゃダメなの?

・・・と沸き上がる疑問が・・・。成績は良くも悪くもありませんし、最近は友人関係のトラブルもありませんが、発達障害重複を持ち、さまざまな生きづらさを感じている息子は、間違いなくマイノリティーに分類されるはずで、そうなると“普通”とは外れるのでは?普通から外れたら中間層にいられないんじゃ?だとしたら息子は“必死に”中間層から外れないようにしているとか?

やはり疑問だらけです。

疑問だらけついでに、次回はジェンダー、セクシャリティーを考えてみたいと思います。

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