“ブレる”という自分軸(相対性視点)

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

秋らしく、というより冬らしくなってきましたが、体調はいかがですか。寒暖差が激しいので、体調を壊しやすくなるので気をつけたいものです。

さて今回は、認知心理学からは遠く離れますが、今回「アイツは自分がないよな」「あの人は自分軸持ってないのかな」「彼(彼女)は芯がブレブレだ」「彼女は(人/流行)流されやすい」などと誰かを評価する時に言われがちな表現について深掘りしてみたいと思います。

自分がない、芯が弱い、自分軸がない。人を褒める言葉ではないように感じます。

自分がない/ブレブレ/流されやすい、には水面に漂う根無草(根はあるのですが、地に根付いていないだけ)“浮草”のようなイメージを、自分軸がある/ブレない、には地に根を張った揺らがない意思の強さをイメージするのではないでしょうか。

つい最近ボスと話しをしていて、実はすべての人は“ブレていない”のではないか?という答えに辿り着きました。

初志貫徹、確かにブレない感があります。一方、言うことがコロコロ変わり、その度に誰かを振り回す結果になっていると、何だか自分がなくて自分軸がない感じです。

自分軸とはしっかり地に根付いているとは限らないのでは?のようなやり取りから、【ブレっブレなのが自分軸】【人の影響を受けまくってすぐに自分を見失うのが自分軸】【どんな流行りにもとりあえず乗らなきゃ気が済まないのが自分軸】【(無自覚ではあるものの)自分がないのが自分軸】ではないか?と。

根無草のようにあっちにふら〜り、こっちにフラ〜り・・・が、そのままその人の自分軸。他者に影響を受けまくり、他者の評価ばかり気にしていつもオタオタ、それが自分軸。

つまり、『根無草であることが自分軸』という見解です。それもひとつの自分軸の形だとすれば、先の“実はすべての人は“ブレていない”のではない”という見方ができるというわけです。

想像してみてください。背景が一切ない白壁だけの中にいるとします。目の錯覚で、実際は動いているのに、自分と一緒に動いているものを見ると止まっているように見える現象があります。一般にブレていると言われている人の視点はこういうイメージなのではないか、ということです。つまり一緒に動いているものに流行や人を当てはめれば、本人は動いていない(流されていない)という主張が可能になることを意味します。

止まっている人からすれば、動きまくっている(流されまくっている)ように“見える”だけで、双方の言い分はどちらも正しいことになる、というわけです。

流行や人の意見・考えを止まって見るか、一緒に動いて見るか、の違いに過ぎないということです。

相対的なことで、流行などに流されまくっている人だけの集団にいると、自分は流されていないという錯覚を抱き、流されない人だけの集団にいると、自分は流されているという錯覚を抱く、と言えます。すべては錯覚ということです。

自分の考えを持っている(自分の物差しがある)=流されていない、という錯覚。自分の考えを持っていない(自分の物差しがない)=流されている、という錯覚。

周りに自分の視点から見て、流されていると“見える”人がいた場合、バカにしたり蔑むのではなく、あれもその人の自分軸だと思えば、不快感を抱いたり、バカにすることなく、フラットな気持ちで相手を見ることができるのではないかと思うのです。ただし重要なことがあります。それは、その人の自分軸に巻き込まれない場合に限る、ということです(笑)

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心理学における想像力の弱さ/欠如とは

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

イマジネーションと言われても、妄想と想像の違いすらよくわかっていない困った人もいるので、改めて想像力を認知と絡めてお話ししたいと思います。

人が考える“想像”とは「もし免許取得したら〇〇なクルマに乗りたいな」「志望校に入ったらサークルに入って・・・」や「子供が生まれたら・・・」「結婚式は〇〇でドレスはこんなのがいいな」「誕生日プレゼント、何にしようかな」のように、自分軸で考えることが多いと思います。

心理を生業としている私たちが見ている想像力は少し違います。

私たちの見ている想像力の弱さや欠如とは、どれだけ先の見通しを立てられるのか?や、他者の気持ちをおしはかったり考えられるのか?という自分軸とは異なった意味になります。

誰でも「赤信号で渡るのは危険だ(今の青信号でも危険ですが)」と知っています。では、何故赤信号で渡るのは危険なのでしょうか?もちろん青信号で走行してきた車やバイクに衝突する可能性がある、ですが、それは結果、怪我をしたり最悪亡くなる可能性もある(危険)だからですよね。

一方、表面的な怪我(痛み)は比較的想像しやすくても、これが“心”が怪我をする、になると想像力の弱さや欠如が目立つようになります。

親しみを込めたつもりの「ホント、バカだよな」や「オマエは何もできないな」は心が切り刻まれないまでも擦り傷を負わせます。「ウザい!」も同じです。

勝手に親しみを込めたつもりで無神経な言葉を吐く人は、ぶつけられた人の心が擦り傷を負ってヒリヒリすることが想像できない想像力が足りないか、欠如した人ということになります。認知機能の弱さや認知の歪み、また知的ボーダーでもこの“想像力の弱さ(欠如)”が表れているケースがあります。

待ち合わせに毎回ビミョーに遅れてきて「謝ったから大丈夫」と思っている人は「私のために時間を作ってくれた」という相手への感謝がなく、「私だったら気にならないからきっと許してもらえる」と考えてしまう人で、それも自分軸でしか考えられていません。会いたいからこそ、自分の時間をやり繰りして待ち合わせをして会おうとします。体調や交通機関の遅延などどうしようもない時は仕方ありませんし、そこはお互いさまですが。

〇〇すること(しないこと)により、自分がどうなるのか?は想像しやすくても、他者がどのような影響を受けるのか?

他者軸の想像力が備わっていないと、他者と摩擦を起こしやすくなりますし、ただの無神経で失礼な人、人の気持ちがわからない人と言われることになります。

無人島で一人暮らしならば無問題ですけど(笑)

想像力の豊かさ、自分に当てはめて考えてみましょう。

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