リモートワークで在宅時間が増えた結果、ペットに悲劇が起きている事実

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

リモートワークが増えたことで在宅時間も増え、「この機会にペットも飼おう」と考える人が増えました。生き物は生活に潤いを与えてくれますが、今の生活にプラスして手間もお金も掛かります。

リモートから通常勤務になった時、あるいはライフステージの変化まで見越して飼育をスタートしている人がどれほどいるのでしょうか。

生き物ですから怪我をしたり病気にもなりますし、いつまでも愛くるしい仔猫や仔犬のままではなく、当たり前に老いもします。人の思い通りにもなりません。←うるさいから夜は鳴かないで、抜け毛は掃除が大変だから毛が抜けない犬(猫)がいいなど。

  • 小さい時は可愛かったけど、大きくなったらそうでもない。
  • 散歩が面倒になった。
  • 毛が抜ける散らかる。
  • カーペットを汚した。
  • 粗相が多い。
  • 臭い。
  • 大きくなったら可愛くない。
  • 鳴き声がうるさい、世話が面倒。
  • 旅行に行けない。
  • なつかない。

などなど。

自ら里親を探す人はまだいいほうで、捨てたり保健所に持ち込む人(人でなしと呼ばせてもらいます)が後を絶ちません。避妊去勢をせず飼育し、頭数が増えたから捨てる(CMにもありますが「誰か優しい人に拾ってもらってね」は犯罪です<動物愛護法違反>)。以前にも書きましたが、生き物は人の手で飼われ始めた時から人に依存してしか生きていく術を失います。

この意味を「野良猫として生きていけるじゃん」と思う人は、行間の読めない残念な頭の持ち主か想像力が欠如している(あるいは想像力がない)人です。

ペットを飼うのは私たち<人間だけ>です。人間のエゴでしかない“癒しのためにペットを飼う”という行為に“動物たちを付き合わせている”だけに過ぎません。

我が家にも猫が4匹いますが、猫たちは多頭崩壊現場からレスキューされた保護猫や、保健所に持ち込まれる寸前だったブリーダー飼育放棄猫で可愛い盛りの仔猫からではありません。

酷い扱いを受けていて、我が家に来た時は人間不信の塊で常にビクビクしていた大人猫。迎えるからには二度と不幸な目に遭わせず、終生飼育の覚悟で迎えています。換毛期にはどんなにブラッシングしても部屋は大変なことになるので、ブラッシング→コロコロを日に何度も繰り返します。

洗濯物にも寝具にもコロコロ、出かける前には親子でコロコロ、嫌がらないので猫たちもコロコロ。一般家庭でのコロコロ消費量は日本一かもしれません(笑)

ペットには私たちと同じ“いのち”があります。人間のように複雑に細分化した感情はありませんが、【痛い、怖い、苦しい、寂しい、嬉しい】感覚や感情はあります。愛情を持ち、世話をし、共に生活を送っていると信頼関係を築けますし、なついてもくれますが、嫌がることをしたり世話を怠けると嫌がらせ(?)をすることもありますし、なついてくれません。

最期まで『いのち』に責任を持ち、飼い続ける覚悟がなければペットなど迎えるべきではないと考えます。犬や猫は長い場合15〜20年は生きますから、子供一人を育てる時間と同等な飼育期間が発生します。瞬間的な可愛いという感情だけでは、到底最期まで飼い続けることはできない時間ではないでしょうか。その時間は飼い主自身にとってもいろいろなことが起こり、ライフステージも十分変わり得る時間です。それでも飼い続けていく、という覚悟と責任が要求されることをよくよく考えてほしいと思うのです。

私のパートナーも猫を3匹飼っていますが、3匹とも飼い始めて16年になるそうです。私が飼っている猫たちよりも活発で、部屋の壁に登ったり爪研ぎをするので、壁紙はボロボロです。それでもパートナーは、元気な証だ、猫を飼うとはそういうことだ、とサラッと言います。

そういう覚悟と責任に自信が持てないなら、苔やマリモにしておくか、今流行りのペット型ロボットにしておくことをオススメします。

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茶を飲んで思ったこと

メンタル・イデア・ラボのスミです。

首都圏では緊急事態宣言が引き続き延長されました。7日日曜日が最終日で、今頃はある程度通常に戻っているはずでした。特に私は食事は外食が多いため、飲食店の20時閉店、アルコールに至っては19時まで、という縛りにうんざりしていました。夜はどこへも行けないのが現実です。21日までそれが続くことになりましたが、果たして解除されるのか疑問です。

しかし、自分が何かできる問題でもないので、仕方なく窮屈を感じながらも過ごしていますが、先日、宇治の老舗の茶舗で茶葉を直接取り寄せました。実際に店にも行ったことがあるので、どんな店かは知っています。和菓子なんかを用意したりして、飲んでみました。

美味いですね、やっぱり。

煎茶だったのですが、少し角があるというか渋味があって和菓子の甘さをサラッと流してくれるような美味さでした。単純にニッポン人でよかったな、と思いました。20代の頃は何故こうしたことに興味がなかったのか不思議です。

湯を沸かし、急須に茶葉を入れ、湯を急須に注ぐ、こうした一連の行為は何の変哲もない日常のことですが、ゆっくりした時間が流れ、茶を飲みながら和菓子を食べることでどこか贅沢な気分になりました。ほっこりした幸福を感じました。緊急事態宣言中のさまざまな都合の悪さや不便さに、無意識に鬱積した心の澱みたいなものが、茶を淹れ飲むまでの一連の行為により、洗い流されたような感覚になりました。酒とはちょっと違う感覚でしたね。

私の場合は茶でしたが、それが珈琲や紅茶の人もいるかもしれません。まだ寒さが残るので、温かい飲み物もよかったのかなと思っています。飲むまでのプロセスも心には重要な効果があるように思いました。当然ですがペットボトルのそれや大量生産された、いわゆる『お茶っ葉』では絶対に感じられないな、と思いました。

ただ飲んで美味しかった、だけではなく、茶葉を摘み、職人によって手間暇かけて仕上げられた茶葉だと思うと、いつもとは違う気分になりました。今まであまり気にしていなかったことに、あえて意識を向けてみると、ほんの少しかもしれませんが案外心は潤うものかもしれません。

手間暇をかけると愛着が湧く、と言いますね。便利過ぎると愛着が湧きにくくなる、これはメンタルには、例えばイライラしやすくなるリスクかもしれないと思いました。メンタルにとって不便過ぎてもいけませんが、便利過ぎてもいけない、便利な生活の中で、いかにあえて不便さを残すか、茶を飲みながらふとそんなことを思ったのでした。

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年頭のご挨拶

新年、明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

メンタル・イデア・ラボ代表のスミです。旧年中はコラムをお読みいただき、誠にありがとうございました。本年も引き続きお読みいただければ幸甚に存じます。

さて、年が明けて早速、東京、埼玉、神奈川、千葉に緊急事態宣言が発令されることになりました。それだけで気分は滅入り気味です。昨年の春に緊急事態宣言が発令され、リモートワークが叫ばれました。今ではリモートワークも一定程度の定着をみせているようです。しかし、その弊害も生まれました。

その弊害は報道されることは滅多にないのでわかりにくいですが、よく聞くのはプライベートと仕事の切り替えが上手くできない、長時間労働になって疲れる、など人それぞれですが、弊害は確実に発生しています。

そしてまた緊急事態宣言の発令・・・メンタルがますます不安に包まれやすい環境になります。疲弊と言ってもいいかもしれません。ちょっと深刻な様相を呈してきています。よく『心が折れる』と言われますが、その前になんとかできないか、という思いで2019年にメンタル・イデア・ラボを立ち上げました。経営陣はじめ社員のメンタルを少しでもケアし、ストレス緩和、低減のヒントを一人ひとりに合った方法で提供しています。

ぜひ企業の人事・労務ご担当者の方は、社員のメンタルに今こそ目を向けてもらいたいと思います。社員の『心が折れてしまった』後では、組織にとってもいいことはありません。リモートワークを推奨するということは社員の顔が見えなくなる、ということなので、メンタルケアの体制を同時に確立する時期だと思います。急速なストレスに個人で対処するにはあまりにも負担が大きいと推察します。その急速なストレスの緩和・低減をサポートする環境の整備が必要な時にきているのではないか、と思わずにはいられません。

どうか本年も経営者、社員が“心身ともに”元気で過ごし、貴社の今後のますますの発展のためにも、メンタル・イデア・ラボをどうぞよろしくお願いいたします。

2021年 丑

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カースト制がないこの国に存在する謎のカースト

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。少し間が空いてしまいました(笑)。

タイトルの謎のカースト・・・ママ友カースト、スクールカースト、本来の使われ方とは違う意味で、○○カーストというものを見かけます。

自分がどの立ち位置にいるのかを無意識下で常に意識し、上層カーストは下を見下し、カースト落ちしないように必死で、中間層カーストは上層カーストの様子(ご機嫌?)を伺いつつ、下層カーストでなくて良かったと胸を撫で下ろし、下層カーストは大人しくしながら、その外側に位置する(ような)アンタッチャブルにはなりたくないと下を見る。・・・というのが私が知る、カースト制のない国にある謎のカーストの認識です。

息子に「スクールカーストってわかる?」と聞いてみたところ「うん、わかるよ」とのこと。今回は息子にスクールカーストの実態を聞き取りしてみました。飽くまでも息子の通う中学校の、息子が感じるスクールカーストになります。

当時はよくわからなかったみたいですが、小学校高学年ぐらいからはあったと言います。それが中学になると顕著になってきた、と。スクールカーストはどのような子供たちがどこのカーストに位置するのでしょうか。

息子の通う中学校は普通の公立ですが、近隣の中学校に比べ礼儀作法や校則が厳しく、そのせいが学校訪問するとどの生徒たちも立ち止まって頭を下げ、元気よく挨拶をしてくれます。少しでも制服を着崩していたり、髪を染めてるようなヤサグレてしまった生徒は一人も見かけたことがありません。見かけだけ、ですが。

飽くまでも息子が通う中学校、息子の主観になりますが、トップカーストにいるのは“成績が良い”“スポーツ万能”もしくはその両方を兼ね備えている子供たちらしく、クラス委員や体育委員、生徒会の主要役員をやっていたり、声も大きく、クラスの雰囲気をガラッと変える力(?)がある目立つ子供たちだそうです。ヤンチャと言われる子供がいない中学校だからでしょうか。ちなみに女子にそのような生徒はいないそうです。

息子が1年生の時は登校渋りが出かけてヤキモキしましたが、2年生になって一人一人を丁寧に見てくれる担任になったことと、たまにふざけることがあっても、まとまりのあるクラスでクラス全体が仲が良く、イジメもなく居心地がとても良いそうです。・・・なのにスクールカーストがある不思議。

息子自身は中間層カーストの、そのまた真ん中ぐらいと自覚していて、クラスのほとんどがこの中間層カーストに位置するそうで、その中に“班”のような仲良しグループが幾つもあり、その中を行き来している子ばかり、クラスではおとなし過ぎず悪目立ちし過ぎない、平均的な子供たちが集まっている、と。

仲が良いらしいクラスに存在する下層カースト、そこにいるのは“ふざけ過ぎる子”“面倒くさい子”“面白くない子”“暗い子”“クラス対抗で協力しない子”たち。こんなくだらないことが理由で下層カーストとは随分と乱暴で理不尽です。

下層カーストの子供たちが何か発言しても周りの空気がシラっとしたり(アクションが薄い)、給食のおかわりは一番最後にされたりするらしいのですが、無視されたりイジメがあったりはないという。

誰がどことはっきり明記されてはいないものの、暗黙の空気みたいなものがあって、誰もがそれを意識しながら学校生活を送っているように見えるらしいのです。休み時間を過ごす場所もカーストにより違うらしく、上層カーストの生徒たちは教室の後ろに溜まり、中間層カーストの生徒たちは自分の席周りやグループの生徒たちの席、下層カーストの生徒たちは廊下や教室の端、図書館にいることが多いとか。私が知るイジメがあったりクラスが荒れたりするスクールカーストとは違い、随分ほのぼのとしたカースト。

どの社会にも“おとなしい子(人)”はいるもので、それがただただ声が小さいとか人見知り、どうでもいいことは自己主張しない、自己主張をするのが苦手な子、他者にあまり関心がない・・・など理由はいろいろあるもので、時間をかけると仲良くなれる子、ということも多いですよね。

5人に1人がHSP、HSE(HSS型HSP、HSEという社交性があるHSPもいます)と言われる時代、当然子供たちの中にもいるわけですが、子供はHSCと呼ばれます(C=Childの「C」)。しかし、

HSPという医学的な診断名はなく、心理学的には“気質”として扱われます。つまりHSPは精神疾患でもなく、発達障害でもないのが現状です。

私はHSPについては部分肯定派なのでそれについてはまたの機会に。

息子が話していて気になった言葉があります。

「普通にしてたら中間層にはいられるんだよ」

普通、普通・・・。普通って何なのでしょうか?

中央値、平均値みたいなもの?普通というからには何らかの基準があるのでは?その基準はどこにあるの?誰が作ったの?

普通から外れたら中間層(大多数、マジョリティーと理解)には入らないの?普通じゃなきゃダメなの?

・・・と沸き上がる疑問が・・・。成績は良くも悪くもありませんし、最近は友人関係のトラブルもありませんが、発達障害重複を持ち、さまざまな生きづらさを感じている息子は、間違いなくマイノリティーに分類されるはずで、そうなると“普通”とは外れるのでは?普通から外れたら中間層にいられないんじゃ?だとしたら息子は“必死に”中間層から外れないようにしているとか?

やはり疑問だらけです。

疑問だらけついでに、次回はジェンダー、セクシャリティーを考えてみたいと思います。

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サラリーマンは実は偉人

メンタル・イデア・ラボ代表のスミです。本城に無理を言って、今回は私がコラムを書きます(笑)。

【サラリーマンは実は偉人】、今では会社員、ビジネスマン、ビジネスパーソンという言い方が主流かもしれませんね。サラリーマンは男性的なイメージがあるし、古い表現というイメージがあると思います。また英語ではなく和製英語であることも、グローバルな今の時代に相応しくなく、また仕事のキャリアを積む女性が増えたこともあると思います。一方で、

新橋と言えばサラリーマンの聖地

と言われています。ビジネスマンの聖地、会社員の聖地という表現は、ほとんど耳にしません。女性の街というイメージは昔からなく、いわゆる『オジサン』が集う街という特殊なイメージが強いゆえに、新橋はあえて『サラリーマンの聖地』と言われているのだろうと、勝手に思っています。確かに新橋はオジサンが多いです(笑)。

ここで、あえてサラリーマン(女性会社員も含む)という表現を使うのは、今も世間に根強く<サラリーマン=凡人>というイメージがあるのではないか、と思うからです。私も若い頃は凡人がなるもの、と勝手に思っていました。しかし、年齢を重ねるにつれ、また社会に出て経験を積むにつれ、どうやらサラリーマンほど凄い人達はいないのではないか?と思えてきたのです。

今でこそ若くして起業し、成功を収めている人もいて、彼らも確かに凄いと思います。しかし、彼らは特権があります。それはその組織の中で『経営者』という権力者である、ということです。権力者はある程度自分で物事を判断し、決定することができます。つまり、組織の中では誰の顔色も気にする必要はないのです(大企業となるとそうも言ってられないかもしれませんが)。これは組織人として物凄い特権です。社長がオーナーでもある企業の意思決定が早いのは、社長がその特権をフル活用できる立場だから、とも言えます。

しかし、サラリーマンは真逆の立ち位置にいます。上司はもちろん、同僚や部下にまでいちいち顔色というか、気にかけなくてはいけません。自分の一存で決定できるのは少なく且つ限られています。つまり、

サラリーマンは人間関係に神経を使いまくる人達、

と言っても過言ではありません。人間関係に神経を使いまくる、というだけでストレスは相当なものだろうと容易に想像できます。その中で日々晒されていると思うと、それだけで凄いと思います。

忍耐力、コミュニケーション力があってもなくてもサラリーマンをしなければならないという立場。息苦しそうです・・・。それでも彼らは日々曲がりなりにも仕事をし、生きています。私の父は70代後半で既に定年退職していますが、年功序列、終身雇用という日本型経営にどっぷり浸かり、その恩恵も受け、時に清濁併せ吞み、家族のためを思いながら、一度も転職することなく大学を卒業して定年まで勤め上げました。今の私からすれば頭が下がる思いです。これはもう一種の才能ではないか、と思うほどです。

私の父のように現在70代くらいの人にとっては、それが当たり前の時代でした。日本で転職が当たり前になったのは、ここ20年くらいの話だろうと思います。転職はできる環境になったとはいえ、組織で働く以上どこに就職しようとサラリーマンです。人間関係に神経を使いまくることに変わりはありません。それを続けることは

経営者とはまた次元の違う物凄い才能ではなかろうか、

と思うのです。私からすればもはや凡人ではないということです。メンタルを病み、残念ながら休職、退職してしまっている人は才能がない、ということではありません。そういう人達は、たまたま才能を上手く活かし切れていないに過ぎず、才能自体は持ち合わせていると思っています。才能は自分ではわからないものです。(あなたには)こういう才能がある、と言えるのは他者であり自分ではありません。才能があると言われている人は内心では迷い、もがき、悩み、時に苦しんでいることが多いのではないでしょうか。

そう考えると、あれこれ迷ったり、悩んだりすることは生きている以上付いて回るもので、才能があるゆえ、とも言えると思います。ロボットは機械なので悩んだり、迷ったりしないので才能はないと言えます。一方でそういう才能はないものの高性能なロボットを作っているのは、他ならぬサラリーマン達だ、という事実に目を向けたいと思うのです。

経営者も経営者としての才能があることは認めます。しかし、その下で働くサラリーマンがいなければ事業は成り立たないことも事実です。つまり、どちらかが偉い、凄いということはなく、立場の差こそあれ、お互いさまな存在だと思うのです。サラリーマンだからといって、自らを卑下することもなければ、凄いと思うこともないし、経営者も経営者だからといって特別凄いも何もないのではないかと思います。むしろ経営者側に成金趣味を露骨に出し、メディアに出たりしている人がいて民度、人格を疑います。サラリーマンにそういう人達はいません。せいぜい飲み屋や後輩、親しい友人に対して自慢し、他者からは器が小さいと囁かれるのが関の山です。そういう人達に才能はないとは言いませんが、サラリーマンでも民度や人格、人望は成金趣味の経営者と同根な残念な人達も確かいにいます。

ストレスに晒されながら組織でいかなる地位に就こうとも決して驕らず、日々粛々と仕事をし、真面目に日常を生きているサラリーマンこそ、よっぽど人格者ではないだろうかと思います。特に飛び抜けたこともなく、別段高給取りでもない、しかし、きちんと仕事をこなし、人間関係に気を遣って毎日を生きているサラリーマン。こうして書いてみると、愛しささえ覚えます。そういうサラリーマンが日本経済の一端を担い、この国が成り立っていると思うと、本当に偉人だと思わずにはいられません。

そういう意味では、私はサラリーマンの才能は持ち合わせていないのかもしれません。過去に二度、会社をクビになったことがあります。しかし食べていかなけれななりません。あるご縁で独立という道を選んで今に至っている次第ですが、なかなか茨の道ですね(笑)。しかしこれも何か意味があると思い、歩んでいこうと思っています。

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coffee break:角に【足の小指をぶつける】という現象について

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前々回から<ADHDの課題【時間管理】について>と題して書いてきましたが、今回は息抜きを兼ねて、誰もが日常的に経験する、いろいろな角に

なぜか足の小指をぶつけるという現象

を、ぶつけられた小指の立場で考えたり、なぜか生まれる小指の持ち主である自分のやり場のない怒りという感情を勝手に考察していきたいと思います(笑)。なお、何のエビデンスもなく、極めて私的なくだらないことを先をお断りしておきます。

生きていれば誰もが一度以上は経験する“角に足の小指をぶつける”という現象について、インターネットではさまざまな意見が散見されます。

  • 身体の末端に位置するため、その存在を忘れやすくぶつけやすい。
  • 神から人間に与えられた乗り越えねばならない一つの試練。
  • 水や空気のように重要でも、その存在は無意識の外側に追いやられやすい存在(足の小指)を、わざわざ意識させることで、生命の根源、生きる意味を哲学的に問うため。

など、いろいろな分野のいろいろな人たちが持論を展開しています。

まず、“なぜ、足の小指をぶつけやすいのか”を私なりに考察してみます。

そもそも、小指に限らずぶつけようとして(ぶつけたくて)ぶつける人はいないはずなので、うっかりぶつけやすい場所に、わざわざぶつけやすい形状で存在している。

同じ足の端に存在しており小指よりはるかに大きいのに、親指をぶつけてその痛みからやり場のない怒りで八つ当たり・・・というのは聞きません。それは小指が足の一番外側に存在しているから、という単純な問題ではないように思うのです。

神は、ある種の怒りスイッチを足の小指の外側に作ったのではないか?と。無差別に八つ当たりしたくなるほど(もちろんしませんが)の、あの理不尽なレベルの痛みと沸き上がる怒りは、うっかりぶつけただけにしては分に合わないように思いませんか?

痛み(怒り)>>>>>>>>ぶつけた衝撃、に思えてなりません。

なので、小指の外側にはある種の普段意識することのない怒りの感情スイッチがあるのでは?と考えました。小指の持ち主も思わず七転八倒、頭の周りをヒヨコがピヨピヨ回ってしまうぐらいの痛みに襲われますが、小指本人(?)はもっと腹立たしいと思うのです。

親指のように主張せず、場所こそ外側とはいえ、ひっそり引っ込み気味に小さく存在しているだけなのに、なぜかうっかりぶつけられやすい位置に存在する小指。小指の立場になって考えると、腹も立つでしょう。

親指にさえ生まれていれば、ただそこに存在しているだけで、何の落ち度もないのにうっかり角にぶつけられなくても済むのですから。ぶつけられやすい位置にぶつけられやすい形状で存在している小指ですが、そこに“親指としてではなく小指”として存在している意味は何でしょうか。

小指はあくまで小指サイズでひっそり存在し、親指と同サイズの小指は存在しません。もしかすると、小指が親指サイズだと、うっかりぶつけた時に持ち主が受ける心身のダメージがあまりにも大きいと考え、ダメージを最小限に抑えるために、そのこじんまりしたサイズなのかもしれません。神様の配慮と言えるでしょう。

机の脚にぶつけた時に「・・・っった!!」と声にならない呻きと、机の脚が自分からぶつかってきたわけでもないのに、なぜか机の脚に腹が立つ私は、人としてまだまだだなぁ、と後から振り返り反省するばかりです。

考えれば考えるほど“勝手にぶつけたのは自分じゃん”なのに、ぶつけた対象物に腹が立つのが不思議です。人が相手ならばまだ説明がつきますが、無機物ですよ?ついでに記憶が吹っ飛びそうになるあの痛みも・・・。

くだらないことを真面目に一生懸命考える無駄時間が心の潤いである私は、人生の研究テーマが二つになりました。

オオケマイマイ(毛の生えたカタツムリ)に毛がある意味と、その発毛メカニズムを解明し、世の悩める薄毛の方々の役に立てないか?

足の小指をぶつけた際の当たり散らしたくなる(悪いのは自分なのに)痛みの意味と、なぜ小指が人体のあの位置にあの形状で存在するのか?

です(笑)。

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改めて【命】について考える【私見】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

コロナ禍で自粛が続き在宅時間が増えた人も多いと思います。そんな中、ペットを迎える人が増えているようです。

外出自粛でインターネット利用時間も増え、SNSを見れば可愛い犬猫の画像が溢れ、「可愛い!飼いたい!これを機にお迎えしよう!」と思う人がいてもおかしくありません。

現代日本で飼われている犬猫のほとんどが愛玩用のペットであり、昔のように番犬のために犬を飼い、ネズミを捕ってもらうために猫を飼う・・・は少なくなっています。家族同様大切にされ、扱われている犬猫、昔に比べて随分長寿になってきたので、人間と同じように病気になった犬猫を連れ、動物病院に通うことも増えました。

生き物を迎えるということは、大袈裟に言えば(私は当たり前のことだと思っていますが)命を預かる、その命に責任を負う、ことだと思っています。

犬猫に限らず、生き物と暮らす前に思い描いていた生活。しかし「こんなはずじゃなかった」があらゆる場面で表れるものです。生き物(の世話)に使う時間、お金が思ったより負担になることは、共に暮らし始めてわかることではないでしょうか。

生き物その種に合った環境を整え維持し、餌、新鮮な水、体調を崩せば病院、病気や怪我をすれば通院治療に自宅で投薬や看病、歳を取れば人間のように認知症様症状が表れ、あちこちで粗相、寝たきりになれば時間など関係ない介護。

ペットを迎えることは、最期まで命に責任を持ち、飼育を途中放棄しない。これは絶対だと考えています。

安易に子供のためにミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)を飼い始め、思ったより大きくなったからと池に放す。たかが金魚すくいの金魚だからと適当に扱い、ゴミのように捨てる。おとなしく飼育が簡単と聞かされ飼い始めるフトアゴヒゲトカゲ、モフモフして可愛い、垂れ耳が可愛い、短足が可愛いと飼い始める長毛猫やある種の猫たち。

小さなミドリガメがフルサイズになるとどのくらいの大きさになるか知っていて飼い始めたのでしょうか。可愛いミドリガメは肉食で、大きくなると案外凶暴になることを知っているのでしょうか。日光浴をしないのであれば、爬虫類用ランプが必要で、それがなければどのような病気になるのか、カルシウムが不足するとどうなるのか、そうさせないためには何をすればいいのか。

ホームセンターの片隅でお手頃価格で売られている、ひょうきんで可愛いフトアゴヒゲトカゲ。最初にどれだけの飼育用品が必要なのか、その生態はどんなものか。

すぐに毛玉だらけになる長毛猫の日々の丁寧なブラッシングは不可欠ですし、垂れ耳猫や短足猫は遺伝的にさまざまな障害を持ちやすいことを知っているのでしょうか。

我が家にも前記した長毛垂れ耳猫が二匹、長毛猫が一匹、日本猫が一匹います。手入れの行き届いた長毛なので、やたら高級感はありますが、いずれも可愛い盛りの子猫からではなく、ブリーダー多頭崩壊や繁殖リタイア猫、保護猫たちで、成猫で我が家に来た猫ばかりです。

親友も無類の生き物好きで、多くのユニークな動物たちと暮らしていますが、命との向き合い方はとても真摯です。

どのような生き物でも、人に飼われた途端、人に依存してしか生きていく術を失うのです。自然界ならば、病気になり歳を取れば自然淘汰されていく命でも。

大きくなったから可愛くなくなった、歳を取って臭くなった汚くなった、病気になってお金がかかる、避妊手術をしてないから(可哀想で)子猫(子犬)が産まれたけどいらない・・・自分から飼い始めたくせに、身勝手極まりない理由で保健所に持ち込まれたり、遺棄される生き物たち。

いらなくなったからと捨てるのなら、生き物を飼ってはいけないと思うのです。手間のかからない(懐きませんが)マリモくらいにしておくのが良いのでは?と思うのです。

あなたが、最初は可愛がられ大切にされていたのに、歳を取ってヨボヨボになった時に信頼していた飼い主に「汚いからもういらない」と棄てられたり、飼育放棄され餌も貰えず、世話もしてもらえなくなったとしたらどうでしょう。

人間のように細分化した感情はないと思われている一部の生き物ですが、信頼や情はあります。嫌がることをすれば嫌われますし、可愛がっていれば飼い主でなくても懐いてくれます。好き、嫌い、怖い、痛い、嬉しい。これだけの感覚、感情があれば十分ではないでしょうか。

心から尊敬する獣医師がいます。どんな小さな命でも全力で助けようとし、実際に持ち込まれる動物は犬猫に留まらず、ヘビやトカゲはもちろん、小さなアマガエルに金魚まで。日本一多くの種類の動物を診ている獣医師と言われており、我が家の動物たちも度々お世話になっています。

命を尊び助けようとするその姿勢のほんのわずかな気持ちでも、生き物を飼う人たちにあれば、今の無責任で悲しい実情を変えられる気がしてなりません。

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意識が高い人と意識高い系ウザイ人

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

「もっと〇〇だったら」「ここをこうできれば」「あの時〇〇しとけば・・・」と、過去を振り返りグダグダ悩み、足掻く生き物が人間です。

「あいつはポジティブだからなぁ」「私はネガティブだからダメ・・・」などと耳にしますが、本来誰しも両面持ち合わせているものではないでしょうか。

過去の経験、場面や気持ちの持ち方、捉え方、その時々のストレスをどの程度ストレスコーピングができるのかなども影響し、ポジティブ、ネガティブの割合が変化するものだと思っているのです。

私自身、決してネガティブ寄りではありませんが、だからと言ってポジティブ絶対主義(原理主義?)でもありません。

何かとポジティブ=善、ネガティブ=悪、と捉えられがちですが、本当にそうなのでしょうか?

例えば、不安を感じやすく、失敗が怖くてなかなか一歩が踏み出せずグズグズ悩みネガティブな人。

見方を変えれば、いろいろなことを細かく考え、繊細でとても慎重な人、だとも考えられませんか。

いつまでも踏み出せず不安にばかり包まれていると、それはそれで困ったことになってしまいますが、

そもそも人にはその人のペースというものがある

ものですし、それを完全無視して(尊重せずに)、良かれと無意識に尻を叩く(優しく)というのは『小さな親切、大きなお世話』にもなりうるウザイ行為になるのです。

ゴシップ雑誌にありそうなタイトルの【意識高い系ウザイ人】ですが、実際に私が経験したことからお話しします。

彼女はとても上昇志向が強く、いつも何にでも全力投球で、「もっともっと」を求めるエネルギッシュな人でした。自己啓発セミナーや能力アップセミナーに通い、啓発本やハウツー本をせっせと読んでは実行に移し、「コレは!」と思ったものは誰かれ構わず積極的に薦める人。

ここまで極端でなくても、啓発本マニアはいますよね(笑)本棚には次々と出版される『稼げる人がやっている〇〇の習慣』だとか『できる人になるには〇〇をやれ』みたいな本がズラリ。

いや、いいのです。誰がどんな読書傾向であろうと。問題はそこではありませんから。

あれこれ手を出すうちに自分にマッチするものと出会い、上手くいったとすれば誰かに薦めたくもなるでしょう。本当にその人のためを思い、オススメしてきてくれることもあるのでしょう、たまには。

でも、あまり必要としていない(考えてもなければやりたいとも思っていない)ことを、「あなたのためを思って」を大義名分にして、延々と薦めてこられるのは、大きなお世話の保険勧誘、甚だ迷惑な宗教勧誘、一歩間違えれば犯罪になりうるネットワークビジネス勧誘に似ているところを感じませんか?

実際、「〇〇しなきゃ!絶対〇〇したらいいって!」「あなたは〇〇だからダメなの、△△してみれば?」「あーダメダメ!それじゃちっともポジティブじゃない」とダメ出しばかりされ、地味にムッとしたことを覚えています。ちなみに、その相手に何かを相談したことは一度もありません(笑)

「一緒にセミナー(啓発系)に行けば生き方変わるって!」と啓発セミナーに引っ張り出されて、何故か大宇宙と交信させられたり(できない)、体育会系の暑苦しいノリで気合いの話ばかりされたり(気持ちは氷点下に冷え冷え)したこともあります。

その結果・・・。

繊細ではない私でも、彼女の顔を見ること、声を聞くことが苦痛になり、全力で避けるようになってしまいました。完全に苦手意識を持ってしまった、ということです。

私は彼女を尊敬していましたし、そのエネルギッシュな生き方を羨ましく思う部分もありましたが、だからといって、“彼女のようになりたい”や“彼女のやり方を採り入れ、変わりたい”と思っていたわけではありません。望んでもいないことを“あなたのためになるから”と、彼女のペースで無理矢理薦められた結果、ありがたいを大きく上回る“鬱陶しい人”になってしまったのです。

最初は幾重にもオブラートに包んでやんわりと迷惑を伝えましたし、あまりの伝わらなさ具合に、直球で迷惑だと抗議したこともあります。

しかし、自分の学んだやり方で上手くいった経験を持つ彼女は「あなたを思って」が前面に出て、“こんなにもあなたを思ってるから薦めてるのに”と、飽くまで善意であり好意だと思い込んでいるので、どうやっても伝わらないのです。

彼女の目には、拒否する私が“あなたを思ってるからなのに!私の気持ちをわかってくれない!”と映ったようでした。仲違いする気はありませんでしたが、私のペースや考え、意思を無視した彼女の押し付けを拒否したことから関係に溝を生み、関わりが薄くなっていきました。

意識が高いこと自体はとても良いことだと思いますし、志高く努力を重ねていくことも素晴らしいと思います。しかし、“あなたにとってベストで素晴らしいもの”が他者にはそうとは限らないのです。それを確認もなく他者にグイグイ薦めてくるのは如何なものか?

意思を尊重し、ペースに考慮し、押し付けでなければ、話をしているうちにひょっとしたら興味を持ってくれるかもしれません。持ってくれなければ潔く諦め、興味を示した時に“あなたのため”などというインチキ臭い耳障りの良い言葉を使わずに話をしてみる、これで十分だと思うのです。

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思考について考えてみる【後篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ひと口に思考と言っても、今は“〜シンキング”というものが流行りのようで、多くの思考法が溢れています。

よく聞く言葉に『ポジティブシンキング』がありますが、今回はポジティブ、ネガティブという“捉え方”ではなく、

“如何に考えるか?”

という思考方法の話です。

思考は、

  • 思考を広げる(幅)/水平思考/ラテラルシンギング
  • 思考を絞り込む(深さ)/垂直思考/ロジカルシンキング

大きくこのふたつに分けられ、

  • 思考を疑う/クリティカルシンキング

を合わせて3つの思考法と言います。

ラテラル

ロジカル

クリティカル

この3つのシンキングについて話を進めていきたいと思います。

重ねての説明になりますが、それぞれ

●ラテラルシンキング → 水平思考(幅)
●ロジカルシンキング → 垂直思考(深さ/論理的思考)
●クリティカルシンキング → 批判的思考

で、ロジカルシンキングは論理的課題解決力と言えます。

ロジカルシンキング=課題解決力、というと何が何でもロジカルシンキングが良い!と思い込みがちですが、必ずしもそうではありません。

ロジカルシンキングは考えねばならない一つの課題に対し論理を構築し、より深く考察していく考え方で、ラテラルシンキングとは、前提や過去の情報に捉われず、斬新な解決策を模索する、広がりのある自由な考え方です。

クリティカルシンキングは“批判的思考”と訳されますが、決して攻撃的な意味ではありません。

これでいいのだろうか?本当に〇〇は△△なのか?と

前提を疑う思考法

です。解決すべき課題に対し、自らの考えを疑う(疑問を持つ)、です。

わかりやすいのはテストの見直しですね。

「この公式で出した解だから正解に決まっている」という気持ちで見直しをしても、間違いを見つけられないことがあります。

「この問題を解くのに、この公式でよかっただろうか?」という気持ちで見直しをする、これが見直しをする上でとても大切になります。

クリティカルシンキングを心掛けるために、陥りやすい幾つかのバイアスがあるので意識しておく必要があります。そのバイアスは次のとおりです。

▷都合の良い結論ありきで考えてしまう。
▷自身の中にある記憶や知識だけに頼る。
▷情報をアップデートせず、最初に得た初期情報に依存する。
▷反対に、アップデートされた情報だけを頼り、初期情報を蔑ろにする。
▷うまくいかなかった時に他責方向で考える。
▷自身の知識や体験にこだわり、ニュートラルな視点で発想できない。

以前にもお話した【認知バイアスの罠】がここでも働いてしまうのです。

時と場合によっては、ラテラルシンキングで多角的に広がりをもって考え、ロジカルシンキングでより深掘りし、クリティカルシンキングで疑問を投げかけ検証し、さらに考えに修正を加え研鑽していく・・・が、最善の解を導き出す方法であったりもします。

どの考え方が一番良い、ということではなく、いろいろな思考法をバイアスを取っ払い柔軟に駆使しながら課題解決に取り組む、この姿勢こそが大事なのではないかと思うのです。

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思考について考えてみる【前篇】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

いきなりですが“考える力”を育むために必要な要素とは何だと思いますか?

それは、

知識力と思考力

です。今回は知識力や思考力、また思考方法などを前篇・後篇で書きたいと思います。

知識力とは、その人自身が持っている知識の量ですが、暗記が得意で知識だけが溢れるほどあっても、思考力が伴っていなければ考える力が高いとは言えません。

知識力と思考力をマスク製作を例に出して考えてみましょう。

マスクを作るために必要な道具(ミシン、縫い針、ハサミなど)や材料(さまざまな布やゴムひもなど)が考えられます。

●道具の使い方やさまざまな布やゴムひもの性質をどれくらい知っているか?

↑これに該当するのが知識力になります。

●どの素材(夏だから接触冷感にしよう、冬は暖かな肌触り。ゴムひもは耳が痛くならないニット製、それとも耐久性のどちらを選ぼうかな)を使い、どんな形のマスク(立体型?プリーツ型?など)を、何を使って(手縫いだけにしようか、ミシンを使おうか)どのような手順で作るのか(先にまとめて裁断しようか、ゴムひもから取り掛かろうか)?

↑これに該当するのが思考力になります。

道具や材料が揃っていても、

  • 何のために
  • どのようなマスクを

をイメージできなければ実際の行動に移すことはできません。取り掛かれても、途中でグダグダになることが目に見えています。

私たちは、

無意識に知識を使い、知識を発展させたり応用するという思考がセットになって行動に繋がっている

ことが分かってもらえたと思います。

一度自分の行動を振り返り、

どのような知識を使い、それを発展、応用しているのかを意識してみる

とわかりやすいと思います。

料理、買い物といった家事、営業や接客、指示されたものを作り上げるといった仕事、そこには蓄えた知識を柔軟に発展、応用しているあなたがいるはずです。

後篇では思考法について考えてみます。

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