境界知能/知的ボーダー

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

支援からこぼれ落ちてしまうのに、社会生活や日常生活であれこれ困り感が出る。わかりやすく知的障害でも発達障害でもない境界知能(知的ボーダー)をご存じですか?

自治体によって僅差はありますが、概ねIQ50〜70が軽度知的障害とされ境界知能と言われています。

成績が振るわないことが多く、概念の理解も難しいのですが頑張れば高校までは卒業でき、買い物(割引率や消費税などの計算)や煩雑な手続きは苦手だけど、サポートがあれば日常生活や社会生活はできる、といった感じでしょうか。

IQは知的能力を数値化して表しますが、そこで見ているのは勉強ができるできないといった能力(学力)ではなく、さまざまな適応能力も含めて見ています。

適応能力は同年齢と比較した時に、社会生活や日常生活を送るために必要な能力がどの程度備わっているのかを見ます。

適応能力とは大まかに3つの領域に分けられ、対人コミュニケーションや日常スキル、概念などで、言語理解や読字、数や時間、記憶など抽象的なものを理解する能力が概念です。

“(ホール)ケーキが切れない非行少年たち”という本にも境界知能について説明がありました。

実際に境界知能だとどのような困り感や生きづらさを感じるのでしょうか。

サポートがあれば金銭や読字など簡単な概念は理解することができるので、時間はかかりますが買い物や家事など一人でこなせるようになります。

認知面に問題を抱えているケースが多く、感情の細分化が未熟、言語化が苦手なこともあり、コミュニケーションはパターン化され幼稚なイメージを受けることもあるようです。

感情のコントロールが苦手でキレやすかったり、先を見通した計画を立てることも苦手で、行き当たりばったりな言動、行動が目立つこともあります。

発達障害と重複するケースもあることから慎重に見極めることが大切です。

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GWですね。

メンタル・イデア・ラボのAEのスミです。

昨日からGWが始まりましたね。

一応マスク着用以外の制約はなく、ちょっと開放感がありますね。

人事異動で新しい職場になった人、大学を出て社会人になった新入社員の人、新人研修でクタクタな総務・人事・労務などの部署の人、4月はいつの間にかいっぱいいっぱいになってしまう時期だったと思います。

このGWはちょっとした小休止。思い思いに過ごしたいものですね。束の間、仕事のことは忘れてボーッとするもよし、どこかへ行くもよし、ふらっとドライブ、散歩するもよし、年明けから頑張ってきた心身をとにかく労ってほしいと思います。

GW関係なく仕事の人は、本当にお疲れ様です。規制や制約がない分、人の移動と人出の種類がいつもと違うので、疲れ方も違うかもしれませんね。

リラックスタイムに今日の自分を2〜3個褒めてみてくださいね。何事もなく平凡に終われた、ランチを美味しく食べれた、頑張って残業しちゃったな、今日も元気だったな、など、そんな感じでいいのです。難しく考えないことが肝です。反省ばっかりしてると“ダメ人間かも”と思ってしまい、本当に“ダメ人間”になってしまうこともあるので、反省はほどほどに(笑)

仕事の人も仕事でない人も、とにかく風邪をひかず、事故に遭わず、元気に過ごせるGWになるといいですね!それでは、よいGWを。

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5月は5日木曜日はGWのため休載し、10日火曜日より掲載します。

紡ぎ

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

『紡ぐ(つむぐ)』という言葉がちょっと気になっています。

改めて意味を調べると糸を作ることとありました。

人はいいこと、悪いことを経験する、これは絶対と言ってもいいかもしれません。

しかし悪いこと、ツラいことが続くと、メンタルは弱っていってしまいます。

続いた時にどうするか・・・弱っていくメンタルをどう立て直していくか、人はこれを繰り返して生きていくのだろうと思います。

私も思えばその繰り返しだったように思います。恐らくこれからもそれを繰り返して生きていくのだろうと思います。

そうわかっていても悪いことやツラいことがあったり、続いたりすると、その状況から抜け出せるのだろうか、もうこれで終わってしまうのではないだろうか、と不安になって益々メンタルが弱っていきます。

『幸せ』とはなんだろうか?と、ふと思ってしまうこともあります。

いろいろな思いが巡ります。自分が嫌になったりもします。

そういう気持ちを抱えながら生きるということが『人が生きる』ということなのかもしれません。わかっているつもりでも、日常を過ごしているとつい忘れてしまい、感情的になったり、不満をぶつけたり、不安の渦に引き込まれ、もうダメだと思ってしまうものです。

人生というと偉そうで、抽象的で堅苦しく、漠然としています。そして口にすることなどおこがましい。哲学的でどこか自分のことから離れたことのようにすら思います。

『自分の生を紡ぐ』

言い換えると、こういう表現になるのかな、と今は思います。紡ぐというと営みを感じます。さらに自分のこととして意識しやすい。

いいことも悪いことも、ツラいことも苦しいことも、自分の生を紡いでいる瞬間瞬間なんだ、と。紡いだ先はどうなるのか、それはわかりません。だからこそ紡ぎ続けるしかないのだと思っています。

『紡ぐ』という言葉は、とりあえず主体的に自分を生きてみようかな、と思える不思議な言葉だと感じました。

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溺れる者は藁をも掴む

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

新年明けまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年末年始は如何お過ごしでしたでしょうか。仕事初めがあった直後に雪で本日10日は3連休最後のお休み、少しホッとできた頃だろうな、と思います。一方でコロナ感染者が徐々に増えていて、まだまだ不安が払拭されない年明けとなりました。

歴史を振り返ると、疫病蔓延、飢饉、飢餓、ノストラダムス1999年世界滅亡論など、人々の不安を煽るような“何か”が起こるたびに怪しげな宗教家や占い師、祈祷師、胡散臭い預言者などが現れ人々の不安につけ込み、ますます不安を煽って混乱に陥れ、“救われる”、“正しい”と言われる道に導いたり導かなかったり、詐欺にも似たことを繰り返してきました。

『コロナ禍+ストレス社会』でもある現在も同じように不安、不満、不信が蔓延しやすい状況と言えます。将来不安(経済的、身体的)がなく、日々充実、十分な休養も取れている状態だと人は皆不安は極めて少なく、余裕を持って“その人らしく”過ごすことができます。

将来不安は随分前からこの国には蔓延しているように思います。雇用や年金、教育は働く人にとっては身近な問題として感じてきたのではないでしょうか。いつリストラに遭うかわからない、賃金が上がらない、でも社会保障費(給料から天引き)の負担は重くなるばかり。消費税も上がりました。年金も貰えたとしても暮らしていけるのか?教育もお金がかかり、結婚しても安心して子供を産み、育てることに躊躇してしまう・・・二人目なんてとんでもない。親の介護、自分が将来病気になったら医療費もかかる・・・などなど経済的な不安は高まるばかりです。

そこにコロナです。ただでさえ経済的不安が蔓延しているところに、このコロナは厳しい現実を突きつけました。この2年で経済的困窮者は明らかに増え、明日は我が身の状況です。

希望が見えにくい、まさに不安蔓延社会です。

このような不安が蔓延している現代社会は焦燥感からか(自己向上も?)、スピリチュアル系自己啓発セミナー、アルバイトのにわか占い師、ちょっとよくわからないカウンセラーに傾きがちに見えるように思われます。不安の内容や質は違っても、『不安』というメンタルにおいては、昔の飢饉や飢餓、疫病蔓延などで何かに救いを求める社会情勢とほぼ同じと言えるのではないでしょうか。

世の中にはスピリチュアルカンセラーや前世療法セラピスト、ただのアルバイトのにわか占い師、本をちょっぴり読んでデビューした〇〇カウンセラーが溢れ、石を投げればそれらの何かに当たりそうですが、人々は昔と同じように救い(?)を求めて右往左往しています。

スピリチュアルを完全否定はしませんが、ズブズブのスピリチュアル沼に首までハマって自分の人生をスピリチュアルやホニャララパワーに委ねてしまうのは、非常に勿体なく如何かと思うのです。

タイトルにある“溺れる者は藁をも掴む”に見えませんか?私には藁どころかビニールの切れっ端やマヨネーズのキャップにすらしがみつきそうな勢いにしか見えません。

現代は昔と違い科学が発達しています。科学的エビデンスをもってメンタルをケアすることが可能です。それは不安に溺れそうになったら、科学に裏付けされたメンタルケアに頼ることが可能ということです。病気の治療と同じように科学的対処法でメンタルをケアするという、昔にはなかった選択肢が現代にはあるのです。

「自分は人を見る目があるから絶対大丈夫!騙されるわけない!」と余裕でいる人ほど、妙な藁を掴んだり、助けてくれそうに見えて実は泥舟に乗っかってしまうのを散々見てきました。疑うことを知らないピュアな人だったのかもしれませんが・・・。

溺れそうな時に必死に藁を掴んでも、所詮藁なんて共に沈みます。静かに力を抜き、波に身を任せ、自力で浮かんでいるだけのほうが、まだ溺れずに済むかもしれません。科学的なメンタルのケアで静かな力の抜き方、波への身の任せ方、自力での浮かび方を身につけて、心しなやかに、そして軽やかにこの苦難をかわしていきたいですね。

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この夏、蝉に思う

メタ認知のシリーズの途中ですが、ちょっとブレイク。メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

8月も終盤になってきました。学校は今週から2学期が始まるところが多いようです。私が子供の頃はちゃんと9月からでしたが、いつの間にか8月下旬からになっていたのは少々驚きでした。

世の中は未だにコロナに翻弄されています。私もこの時期一番美味いビールが店で飲めなくなって難儀している一人です。収束の目処が立たないのがツラいですね。何事もそうだと思うのですが、先が見えれば、ある程度我慢できるというものです。今月で終わる、とか、期限がわかるとむしろモチベーションは上がったりします。

現状はその期限の見通しがまったく立っていない・・・これはかなりキツい状況です。不満と不安だけが募ります。私もその一人です。なんとか生きている、という感覚です。不要不急な外出は控えろ、県境を跨ぐ移動は控えろ、去年に続き今年も帰省を控えろと言われている今、気分転換すらままなりません。

かなりメンタルがやられますね・・・。

この夏は個人的にこの状況をどういう心持ちでいたらいいのか、いろいろと模索していました。そして一つの解を得ました。飽くまでも個人的な解です。読者にお勧めするものではありません。

それは、

メンタル、というよりも『心』が丈夫になっている“過程”だ

ということです。

先日夜中に、羽化したばかりの蝉に遭遇しました。抜け殻の上でじっとしていました。体全体は白く、薄く緑がかっていました。羽は透明でとても神秘的でした。羽化したばかりなので、柔らかそうで新鮮さはあるものの逞しさはありません。

それを見てふと思いました。今、自分もこの羽化したばかりの蝉と同じなのかもしれない、と。私の場合、生まれて既に数十年も生きているので、脱皮と言ったほうが正確かもしれませんね。海老や蟹も脱皮したては甲羅は柔らかく最も弱々しい状態です。

今自分は古い心の殻を脱いで、メンタルが弱々しく壊れやすい状態であるのかもしれない、と思ったのでした。蝉は殻を脱いでしばらくはじっとしています。体が整うまでじっとしています。蝉に教えられたように思います。心の殻が整うまでじっとしていようと。そうすれば蝉の丈夫な羽や鎧のような体のように、自分のメンタル、心もさらに丈夫になるだろうと思いました。

強くなる、というより『丈夫になる』と言ったほうがいいですね。強くなるというと、物凄い我慢とか努力が必要だと感じてしまうからです。丈夫になる、というと、そういう我慢とか努力というよりは、目に見えない力に任せることのように感じます。つまり自分の努力とか我慢とは別次元の大きな力に委ねる、という感覚です。

“今を乗り切る”、それだけで精一杯の毎日。そんな毎日だってかなりの努力が必要だし、何もしていないわけではありません。それを続けつつ、後は目に見えない大きな力に任せていこう、そうすればいつの間にか無意識にも、メンタルや心は丈夫になっているだろう、と思うようにしました。

この夏も時々エアコンを切り、夕方に蚊取り線香を焚き、その香りに夏を想っています。そんなノスタルジーに浸りながら、憂鬱な気分を誤魔化しています(笑)

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今、思うこと

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

今、思うこと・・・

同調圧力がなんとも気持ち悪い

オリンピック開催における話です。

オリンピックについては国民感情がどうであれ、どうせ強行するだろうと思っていたので、何も感じていません。

オリンピックが始まり、日本人アスリートがメダルを取るたびにテレビメディアがこぞって「日本中が泣いた」「日本中を感動の渦に云々」「日本の悲願が云々」「暗い話題の中で明るい話題が云々」・・・これを気持ち悪く感じたり、押し付けと感じるのは私だけでしょうか・・・。大抵のことは聞き流すことができるのですが、この場合だけは言いようのない違和感に包まれるのです。

アスリートがオリンピックを目指し、死ぬ気で頑張ってきたのは想像に難しくないし、アスリートの立場だと本音では『オリンピックが開催できてよかった』だと思います。始まれば一部ではそれなりに盛り上がっている、のかもしれません。

これがコロナ禍でなければ興味が薄いにしろ、ここまで冷めてはいなかったでしょう。

私の周りにはメディカル、コ・メディカルが多くいて、感染リスクと闘いながら日常業務を日々粛々とこなしていますが、その周りでは感染し亡くなった人も多くいるのが現実で、身近な人を亡くした知り合いも一人や二人ではありません。そんな悲しむ暇もない人たちに、テレビメディアの言葉はどう映るのでしょうか。

なにも、一切報道するな、などとは思いません。

でも「日本中が泣いた」「日本中を感動の渦に云々」の言葉の中に“日本で開催されている東京オリンピック、日本人がメダル取った(健闘してる)んだから感動するよね?みんな感動するに決まってるよね?”とゆるゆる同調圧力をかけられているように感じてしまうのです。

「じゃ、テレビなんか見なければいいじゃないか」という意見があることも知っています。しかしそれは、一方への我慢の押し付けで排除の論理です。そんな単純な話ではありません。テレビメディアは公共の電波(国民の財産)を使っている以上、このコロナ禍においては配慮ある報道がされて当然だと思うし、無邪気に歓喜の言葉を並び立てる姿勢を問わなくてよいとは思いません。裏を返せばテレビ局が所有する自前の電波であれば、どんな報道をしようが勝手です。

なぜ同調圧力を生みかねない言葉を無邪気に使うのか?お涙頂戴が大好きな日本のテレビメディアはその体質は依然変わっていません。多分これからも変わらない気がします。それに乗じて『感動しないなんておかしい』『なんでオリンピック観ないの?』と感動しない(興味ない)人を非難したり、おかしいと言わんばかりの人々こそむしろ深刻で、旧態依然とした思考のままアップデートされていないと言わざるを得ません。

オリンピック開催が皮肉にも、同調圧力をこんなにもわかりやすく感じさせてくれています。社会全体が『五輪礼賛』という同調圧力に晒されているように感じます。その急先鋒がテレビメディアであり、私たちが試されているようでもあります。

私たち一人ひとりがオリンピックやワールドカップのような国際イベントに興じない人々が必ず一定数存在することをそろそろ理解し、感動の押し付けは止めませんか。職場や学校などで、そういうものを観ていない人や興味がない人を『冷めたヤツ』と言ったり非国民扱いするのはもう止めませんか。一部ではそれをオリンピックハラスメント、オリハラと言うそうです。また7月27日にはこんな記事もありました。お時間がある時に読んでみてください。

時代はもう多様性にシフトしています。今はまだ企業だけが取り組むイメージが強い多様性ですが、そろそろ個人レベルでも多様性を理解し実践していく時代です。コロナ禍でのオリンピックとその報道を通して、日本は本当の意味で多様性な社会ではないこと、ダイバーシティなんてまだまだ絵に描いた餅で、インクルージョンなんて程遠いということを痛感しました。

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リモートワークで在宅時間が増えた結果、ペットに悲劇が起きている事実

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

リモートワークが増えたことで在宅時間も増え、「この機会にペットも飼おう」と考える人が増えました。生き物は生活に潤いを与えてくれますが、今の生活にプラスして手間もお金も掛かります。

リモートから通常勤務になった時、あるいはライフステージの変化まで見越して飼育をスタートしている人がどれほどいるのでしょうか。

生き物ですから怪我をしたり病気にもなりますし、いつまでも愛くるしい仔猫や仔犬のままではなく、当たり前に老いもします。人の思い通りにもなりません。←うるさいから夜は鳴かないで、抜け毛は掃除が大変だから毛が抜けない犬(猫)がいいなど。

  • 小さい時は可愛かったけど、大きくなったらそうでもない。
  • 散歩が面倒になった。
  • 毛が抜ける散らかる。
  • カーペットを汚した。
  • 粗相が多い。
  • 臭い。
  • 大きくなったら可愛くない。
  • 鳴き声がうるさい、世話が面倒。
  • 旅行に行けない。
  • なつかない。

などなど。

自ら里親を探す人はまだいいほうで、捨てたり保健所に持ち込む人(人でなしと呼ばせてもらいます)が後を絶ちません。避妊去勢をせず飼育し、頭数が増えたから捨てる(CMにもありますが「誰か優しい人に拾ってもらってね」は犯罪です<動物愛護法違反>)。以前にも書きましたが、生き物は人の手で飼われ始めた時から人に依存してしか生きていく術を失います。

この意味を「野良猫として生きていけるじゃん」と思う人は、行間の読めない残念な頭の持ち主か想像力が欠如している(あるいは想像力がない)人です。

ペットを飼うのは私たち<人間だけ>です。人間のエゴでしかない“癒しのためにペットを飼う”という行為に“動物たちを付き合わせている”だけに過ぎません。

我が家にも猫が4匹いますが、猫たちは多頭崩壊現場からレスキューされた保護猫や、保健所に持ち込まれる寸前だったブリーダー飼育放棄猫で可愛い盛りの仔猫からではありません。

酷い扱いを受けていて、我が家に来た時は人間不信の塊で常にビクビクしていた大人猫。迎えるからには二度と不幸な目に遭わせず、終生飼育の覚悟で迎えています。換毛期にはどんなにブラッシングしても部屋は大変なことになるので、ブラッシング→コロコロを日に何度も繰り返します。

洗濯物にも寝具にもコロコロ、出かける前には親子でコロコロ、嫌がらないので猫たちもコロコロ。一般家庭でのコロコロ消費量は日本一かもしれません(笑)

ペットには私たちと同じ“いのち”があります。人間のように複雑に細分化した感情はありませんが、【痛い、怖い、苦しい、寂しい、嬉しい】感覚や感情はあります。愛情を持ち、世話をし、共に生活を送っていると信頼関係を築けますし、なついてもくれますが、嫌がることをしたり世話を怠けると嫌がらせ(?)をすることもありますし、なついてくれません。

最期まで『いのち』に責任を持ち、飼い続ける覚悟がなければペットなど迎えるべきではないと考えます。犬や猫は長い場合15〜20年は生きますから、子供一人を育てる時間と同等な飼育期間が発生します。瞬間的な可愛いという感情だけでは、到底最期まで飼い続けることはできない時間ではないでしょうか。その時間は飼い主自身にとってもいろいろなことが起こり、ライフステージも十分変わり得る時間です。それでも飼い続けていく、という覚悟と責任が要求されることをよくよく考えてほしいと思うのです。

私のパートナーも猫を3匹飼っていますが、3匹とも飼い始めて16年になるそうです。私が飼っている猫たちよりも活発で、部屋の壁に登ったり爪研ぎをするので、壁紙はボロボロです。それでもパートナーは、元気な証だ、猫を飼うとはそういうことだ、とサラッと言います。

そういう覚悟と責任に自信が持てないなら、苔やマリモにしておくか、今流行りのペット型ロボットにしておくことをオススメします。

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茶を飲んで思ったこと

メンタル・イデア・ラボのスミです。

首都圏では緊急事態宣言が引き続き延長されました。7日日曜日が最終日で、今頃はある程度通常に戻っているはずでした。特に私は食事は外食が多いため、飲食店の20時閉店、アルコールに至っては19時まで、という縛りにうんざりしていました。夜はどこへも行けないのが現実です。21日までそれが続くことになりましたが、果たして解除されるのか疑問です。

しかし、自分が何かできる問題でもないので、仕方なく窮屈を感じながらも過ごしていますが、先日、宇治の老舗の茶舗で茶葉を直接取り寄せました。実際に店にも行ったことがあるので、どんな店かは知っています。和菓子なんかを用意したりして、飲んでみました。

美味いですね、やっぱり。

煎茶だったのですが、少し角があるというか渋味があって和菓子の甘さをサラッと流してくれるような美味さでした。単純にニッポン人でよかったな、と思いました。20代の頃は何故こうしたことに興味がなかったのか不思議です。

湯を沸かし、急須に茶葉を入れ、湯を急須に注ぐ、こうした一連の行為は何の変哲もない日常のことですが、ゆっくりした時間が流れ、茶を飲みながら和菓子を食べることでどこか贅沢な気分になりました。ほっこりした幸福を感じました。緊急事態宣言中のさまざまな都合の悪さや不便さに、無意識に鬱積した心の澱みたいなものが、茶を淹れ飲むまでの一連の行為により、洗い流されたような感覚になりました。酒とはちょっと違う感覚でしたね。

私の場合は茶でしたが、それが珈琲や紅茶の人もいるかもしれません。まだ寒さが残るので、温かい飲み物もよかったのかなと思っています。飲むまでのプロセスも心には重要な効果があるように思いました。当然ですがペットボトルのそれや大量生産された、いわゆる『お茶っ葉』では絶対に感じられないな、と思いました。

ただ飲んで美味しかった、だけではなく、茶葉を摘み、職人によって手間暇かけて仕上げられた茶葉だと思うと、いつもとは違う気分になりました。今まであまり気にしていなかったことに、あえて意識を向けてみると、ほんの少しかもしれませんが案外心は潤うものかもしれません。

手間暇をかけると愛着が湧く、と言いますね。便利過ぎると愛着が湧きにくくなる、これはメンタルには、例えばイライラしやすくなるリスクかもしれないと思いました。メンタルにとって不便過ぎてもいけませんが、便利過ぎてもいけない、便利な生活の中で、いかにあえて不便さを残すか、茶を飲みながらふとそんなことを思ったのでした。

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年頭のご挨拶

新年、明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

メンタル・イデア・ラボ代表のスミです。旧年中はコラムをお読みいただき、誠にありがとうございました。本年も引き続きお読みいただければ幸甚に存じます。

さて、年が明けて早速、東京、埼玉、神奈川、千葉に緊急事態宣言が発令されることになりました。それだけで気分は滅入り気味です。昨年の春に緊急事態宣言が発令され、リモートワークが叫ばれました。今ではリモートワークも一定程度の定着をみせているようです。しかし、その弊害も生まれました。

その弊害は報道されることは滅多にないのでわかりにくいですが、よく聞くのはプライベートと仕事の切り替えが上手くできない、長時間労働になって疲れる、など人それぞれですが、弊害は確実に発生しています。

そしてまた緊急事態宣言の発令・・・メンタルがますます不安に包まれやすい環境になります。疲弊と言ってもいいかもしれません。ちょっと深刻な様相を呈してきています。よく『心が折れる』と言われますが、その前になんとかできないか、という思いで2019年にメンタル・イデア・ラボを立ち上げました。経営陣はじめ社員のメンタルを少しでもケアし、ストレス緩和、低減のヒントを一人ひとりに合った方法で提供しています。

ぜひ企業の人事・労務ご担当者の方は、社員のメンタルに今こそ目を向けてもらいたいと思います。社員の『心が折れてしまった』後では、組織にとってもいいことはありません。リモートワークを推奨するということは社員の顔が見えなくなる、ということなので、メンタルケアの体制を同時に確立する時期だと思います。急速なストレスに個人で対処するにはあまりにも負担が大きいと推察します。その急速なストレスの緩和・低減をサポートする環境の整備が必要な時にきているのではないか、と思わずにはいられません。

どうか本年も経営者、社員が“心身ともに”元気で過ごし、貴社の今後のますますの発展のためにも、メンタル・イデア・ラボをどうぞよろしくお願いいたします。

2021年 丑

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カースト制がないこの国に存在する謎のカースト

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。少し間が空いてしまいました(笑)。

タイトルの謎のカースト・・・ママ友カースト、スクールカースト、本来の使われ方とは違う意味で、○○カーストというものを見かけます。

自分がどの立ち位置にいるのかを無意識下で常に意識し、上層カーストは下を見下し、カースト落ちしないように必死で、中間層カーストは上層カーストの様子(ご機嫌?)を伺いつつ、下層カーストでなくて良かったと胸を撫で下ろし、下層カーストは大人しくしながら、その外側に位置する(ような)アンタッチャブルにはなりたくないと下を見る。・・・というのが私が知る、カースト制のない国にある謎のカーストの認識です。

息子に「スクールカーストってわかる?」と聞いてみたところ「うん、わかるよ」とのこと。今回は息子にスクールカーストの実態を聞き取りしてみました。飽くまでも息子の通う中学校の、息子が感じるスクールカーストになります。

当時はよくわからなかったみたいですが、小学校高学年ぐらいからはあったと言います。それが中学になると顕著になってきた、と。スクールカーストはどのような子供たちがどこのカーストに位置するのでしょうか。

息子の通う中学校は普通の公立ですが、近隣の中学校に比べ礼儀作法や校則が厳しく、そのせいが学校訪問するとどの生徒たちも立ち止まって頭を下げ、元気よく挨拶をしてくれます。少しでも制服を着崩していたり、髪を染めてるようなヤサグレてしまった生徒は一人も見かけたことがありません。見かけだけ、ですが。

飽くまでも息子が通う中学校、息子の主観になりますが、トップカーストにいるのは“成績が良い”“スポーツ万能”もしくはその両方を兼ね備えている子供たちらしく、クラス委員や体育委員、生徒会の主要役員をやっていたり、声も大きく、クラスの雰囲気をガラッと変える力(?)がある目立つ子供たちだそうです。ヤンチャと言われる子供がいない中学校だからでしょうか。ちなみに女子にそのような生徒はいないそうです。

息子が1年生の時は登校渋りが出かけてヤキモキしましたが、2年生になって一人一人を丁寧に見てくれる担任になったことと、たまにふざけることがあっても、まとまりのあるクラスでクラス全体が仲が良く、イジメもなく居心地がとても良いそうです。・・・なのにスクールカーストがある不思議。

息子自身は中間層カーストの、そのまた真ん中ぐらいと自覚していて、クラスのほとんどがこの中間層カーストに位置するそうで、その中に“班”のような仲良しグループが幾つもあり、その中を行き来している子ばかり、クラスではおとなし過ぎず悪目立ちし過ぎない、平均的な子供たちが集まっている、と。

仲が良いらしいクラスに存在する下層カースト、そこにいるのは“ふざけ過ぎる子”“面倒くさい子”“面白くない子”“暗い子”“クラス対抗で協力しない子”たち。こんなくだらないことが理由で下層カーストとは随分と乱暴で理不尽です。

下層カーストの子供たちが何か発言しても周りの空気がシラっとしたり(アクションが薄い)、給食のおかわりは一番最後にされたりするらしいのですが、無視されたりイジメがあったりはないという。

誰がどことはっきり明記されてはいないものの、暗黙の空気みたいなものがあって、誰もがそれを意識しながら学校生活を送っているように見えるらしいのです。休み時間を過ごす場所もカーストにより違うらしく、上層カーストの生徒たちは教室の後ろに溜まり、中間層カーストの生徒たちは自分の席周りやグループの生徒たちの席、下層カーストの生徒たちは廊下や教室の端、図書館にいることが多いとか。私が知るイジメがあったりクラスが荒れたりするスクールカーストとは違い、随分ほのぼのとしたカースト。

どの社会にも“おとなしい子(人)”はいるもので、それがただただ声が小さいとか人見知り、どうでもいいことは自己主張しない、自己主張をするのが苦手な子、他者にあまり関心がない・・・など理由はいろいろあるもので、時間をかけると仲良くなれる子、ということも多いですよね。

5人に1人がHSP、HSE(HSS型HSP、HSEという社交性があるHSPもいます)と言われる時代、当然子供たちの中にもいるわけですが、子供はHSCと呼ばれます(C=Childの「C」)。しかし、

HSPという医学的な診断名はなく、心理学的には“気質”として扱われます。つまりHSPは精神疾患でもなく、発達障害でもないのが現状です。

私はHSPについては部分肯定派なのでそれについてはまたの機会に。

息子が話していて気になった言葉があります。

「普通にしてたら中間層にはいられるんだよ」

普通、普通・・・。普通って何なのでしょうか?

中央値、平均値みたいなもの?普通というからには何らかの基準があるのでは?その基準はどこにあるの?誰が作ったの?

普通から外れたら中間層(大多数、マジョリティーと理解)には入らないの?普通じゃなきゃダメなの?

・・・と沸き上がる疑問が・・・。成績は良くも悪くもありませんし、最近は友人関係のトラブルもありませんが、発達障害重複を持ち、さまざまな生きづらさを感じている息子は、間違いなくマイノリティーに分類されるはずで、そうなると“普通”とは外れるのでは?普通から外れたら中間層にいられないんじゃ?だとしたら息子は“必死に”中間層から外れないようにしているとか?

やはり疑問だらけです。

疑問だらけついでに、次回はジェンダー、セクシャリティーを考えてみたいと思います。

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