生きづらさ/アタッチメント不全【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

生きづらさを感じながら生活をしている人が増えています。それは一体どのような生きづらさなのでしょうか・・・。

  • 対人関係が上手くいかない。
  • 人より劣っていると感じて苦しい。
  • 今の環境(会社/職場、家庭)に馴染めない。
  • いろんなことが気になって疲れる。
  • 他者に不安感、不信感が強い。

生きづらさを突き詰めていくと、何らかの原因があります。原因次第では認知療法の練習を重ねて生きづらさを上手く薄めていく方法や、自分らしさを取り戻していくプログラムがあったり、診断を受けて自己理解を深めると同時に自身でさまざまなライフハックを取り入れながら周りに配慮をお願いできる場合もあります。

発達障害(グレーゾーン/LD)やアタッチメント不全(愛着不全)、HSP(HSC)などがあると、生きづらさを感じる場面が増えます。

今回から2回に渡り、アタッチメント不全(愛着障害)についてお話ししていこうと思います。

アタッチメント不全、いわゆる愛着障害は幼少期の親(養育者)との関係が原因で自己肯定感が低下することで、本人の自覚はなくても心に深い傷を残しながら成長し、成人してからも人間関係を上手く築けないことから生きづらさを抱えます。

近年増加中の虐待死を考えればわかるように、虐待(身体的・精神的・性的・養育遺棄<ネグレクト>)は外から見えづらいことも多く、第三者が介入するタイミングが難しい事案です。

何より子供にとって家庭/親子関係は、一番身近で人間関係の最初の一歩を学ぶ場です。最初に学ぶ場で歪んだ愛情を与えられたり、がんじ絡めにされたり、関心を持ってもらえず心に空虚なものを抱えて成長すると“自分を尊重し大切にする”という自己肯定感が育まれません。

親に認められずダメ出しばかりで否定されて育つと『自分は何をやってもできないダメな子なんだ』と自己肯定感はどんどん下がりますし、子供に関心がなく気にもかけなければ『自分は愛されてない』『自分は大切にされる価値もない人間なんだ』と失望し、孤独になります。

親が子供の安全地帯であること、叱ることがあっても認めるべき部分にはきちんと目を向けること、まだ小さくて自分の意思を上手く伝えられなくても、人格を持つ一人の人間であると認めてコミュニケーションを取り、接していくことがとても大切です。

言うことを聞かせよう、思いどおりにさせようと威圧的に支配するような言動は少しずつ子供の心を傷つけ、抑圧と否定ばかりの中で自己肯定感と尊厳を擦り減らしていくのです。

大人でも仕事で「はぁ・・・何やらせても中途半端でロクな出来じゃないな、ダメだダメだ」と否定され続けると自信もやる気も無くしませんか?

「何やらせても出来ないんだから何もせず黙ってデスクにいるだけでいいよ(ため息)」と言われたり、そんな空気を出されて誰からも期待されず、気にもかけてもらえなければ居場所がなくなり、自分は無能だと感じて孤独になりませんか?また、大なり小なりそのような経験はありませんか?

大人ですら鬱になりそうなダメ出しや否定の嵐、まだ自分で自分の心を守る術も愚痴を吐いてリカバーする場所もなく、助けすら求める場を知らない子供たちの見えない苦しみを想像してみてください。

自己肯定感は人間関係構築に大きく影響し、幸せを感じる幸福感をも左右します。

次回はアタッチメント不全がもたらす人間関係への生きづらさが、具体的にどのような形で表れるのかについてお話しします。

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妬みの感情は他者比較から生まれる

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

妬む羨む感情は、人間関係を拗らせたり自分のメンタルを荒ませたり、生きていく上であまりプラスとして働きません。

実家がお金持ち、親族一党代議士ばかり、旦那が有名大学卒業大企業勤務で高給取り、住まいは都内タワマン(の上層階)、乗っているクルマは高級外車、子供が有名私立中学、彼女が女子アナ、イケメン彼氏とラブラブ、これも同じです。

いちいちマウンティングしてくる人は当たり前に鬱陶しいものですし、無意識にマウンティングしている人もただの無神経な疲れる人です。

今回は誰もマウンティングしていないのに「なぜアイツばっかり、、」「私ばかり酷い目に遭う」「自分だって頑張っているのに」という妬みの感情が生まれるのはなぜなのか?そんな苦しい感情が生まれる原因やその感情との付き合い方を考えてみましょう。

人間関係を拗らせる原因に職場、私生活どちらにおいてもこの“妬み”の感情が深く関わってきます。妬む感情が強い人は常に自分と他人を比べ、上下優劣ををつけたがり、執拗に勝ち負けにこだわる特徴があります。

自己肯定感の低さはもちろんですが、その根底にあるのは承認欲求です。

SNSでたくさん「いいね」が欲しい、あの人にコメント数で負けたくない・・・一番わかりやすい比較です。

妬む気持ちがあると、人に対して素直にはなれませんし、組織の中だと足を引っ張ってやろう、ちょっと困らせてやろう、意地悪しちゃおう、そんな気持ちが生まれます。生産性が下がりそうな話ですね。

誰にでも大なり小なり承認欲求という厄介でありながら、モチベーションに繋がる“他者に認められたい”という欲求があります。行き過ぎた承認欲求を拗らせて承認欲求オバケになってしまっている人もSNSではよく見かけますが(笑)

妬む感情を生むのは自分自身の問題です。自分と誰かを比べ、自分と社会の大多数と思い込んでいるものを見比べ、自分の置かれた立場を不公平だ、理不尽だと思うことから妬みが生まれます。

妬む感情は考える以上にツラく苦しい感情です。必要ないのに、いつも誰かと自分を比較し常に上だ、下だと優劣をつけているのですから。

あなたはあなたで頑張っている。誰とも比べる必要はないのだから、たとえ上手くいかないことがあっても、あなたはあなた自身の頑張りを認め、セルフハグしてあげてください。

できなかったことの数を数えるより、できなかったけど頑張ったことに目を向けて自分を褒めてみてください。失敗すれば反省は必要ですが、それ以上に頑張った自分を認め、褒めるクセを身に付けると自己肯定感を育むことに繋がっていきます。

ちなみに私は昨夜、寝る前の自分褒めタイムに、「(思春期の生意気な)息子に暴言を吐かなかった」「面倒な書類を書き上げた」をベタ褒めしました(笑)

ぜひ、些細な“頑張ったこと”を見つけて、寝る前の『褒め褒めタイム』を作ってみてください。

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よく聞くけど意味はまったく違う【自己肯定感】と【自己正当化】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

皆さんは【自己肯定感】【自己正当化】と聞くと、どのようなイメージを持ちますか?今回は混同されがちで、わかっているようでイマイチよくわかっていない自己肯定感と自己正当化についてお話ししたいと思います。

最近は子育てから企業研修、カウンセリングや学校カウンセリングの場面でも【自己肯定感】という言葉をよく聞くようになりました。

自己肯定感とは・・・自分の長所も短所も認めて、それを肯定的に受容することです。

「失敗したっていいんだもーん!」なんて軽くチャラいノリや開き直りではなく、プレゼンで失敗しても「自分は今の自分にできる精一杯で頑張った、結果は惨敗だったけど自分お疲れさま!」と思えること、これが自己肯定感です。つまり、

失敗してしまった自分、カッコ悪い自分、認めたくないドロドロした感情を燻らせる自分。そんな自分も「これも私の一部分」として、そのまま受容していく、これが【自己肯定感】です。

自己肯定感の高い人は、自分のマイナス面よりもプラス面に目を向けることができるという特徴もあります。自己肯定感は高過ぎても厄介ですが、低過ぎるとそれ以上に厄介です。

自己正当化とは・・・他者から否定されないように自分の行動などに正しいと(無理矢理にでも)理論付けをし、自分を受け入れられようとする行為です。

自己正当化をする人は他者からの否定を恐れ、嫌います。否定されることを避けるために、自分の意見は正しいのだと無理にでも理由付けをしたがります。

わかりやすい例だとセクハラ/パワハラがあります。

「今日のスカートはもっと短いほうが可愛いよ」という発言がセクハラに当たると訴えがあった時に「親しみを込めたつもりだった」「場を和ませようとして言った」という上司、いますよね。あくまでも親しみを込めた、あくまでも場を和ませようとした、ここには自分を正当化する気持ちがあり、非を認めていません。

わざわざ皆の前で失敗を挙げ、激しく叱咤するなども「パワハラに当たるのでは」と訴えがあった時に「彼のためを思って敢えて」「恥ずかしさをバネに成長してもらいたかった」などと非を認めず自己正当化します。

どちらもが“自己受容”という点では同じように見えますが、自己肯定感には自分の意思や意見がある自分視点なのに対し、自己正当化は他者視点のため自分の意見はありません。

前記のセクハラではスカートの短さと可愛さには何の根拠もなく業務にも関係ないはずです。場を和ませようとした、親しみを込めた、という“セクハラやらかした”理由を周囲に認めてもらうための勝手な自己正当化しかしていない、ということです。

先ほどの自己肯定感が低い人に特徴があったように、自己正当化する人にも特徴があります。

自己正当化する人は他者の評価を気にするので、自分が否定されることがないように自己正当化した意見を押し通そうとします。自己肯定感の高い人は他者の意見を受け止めながら自分の意見を伝えることができますが、自己正当化する人は他者の意見を受け入れられません。

話をしていて、自分正当化したがる人は自己肯定感が低い人に多いように感じます。

「屁理屈ばかり」「身勝手」な言い訳ばかりする人が周りにいると、かなり疲れますようね。否定されるかもしれない、と思うと怖くなって傷付かないために予防策として自己正当化してしまう人がいるのも事実です。

自他の認知の違いや自他境界を理解し、アサーションスキルやアンガーマネジメントを身につけることで気持ちよくコミュニケーションができるようになります。

企業研修や勉強会でもアサーション、アンガーマネジメントは人気があります。ただ人によって習得していくスピードは違います。

一生もののスキルですから途中で投げ出さず、ひとりひとりに合ったやり方とペースでじっくり取り組んでいけるよう、いつもプログラムを考えています。

もっとあたたかな人間関係を築いていきたいという表れなんだろうと私は受け取っています。

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迷惑とわがままの境界線

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

現代社会、特にこのコロナ禍では残念なことに徐々に失われつつありますが、日本人は昔から「人様にご迷惑をお掛けしてはいけない」神話があり、その精神にがんじ絡めにされているような気がします。

わざわざ迷惑をかけるのは問題外ですが、生きていれば誰もが誰かに何らかの形で迷惑をかけてしまうことはあるのではないでしょうか。

この『迷惑をお掛けしないように』という気持ちが行き過ぎた時、自分らしさを見失い、人を卑屈にし、ますます自分を追い詰めてしまうことにも繋がります。

行動面では多動はなく、幼少期の育てにくさはありませんでしたが、我が家にもADHDの息子がいます。ADHDとASDを併合していると小さいうちはとにかく落ち着きがなく、すぐどこかにいなくなってしまうわ、自分の思いどおりにならないと泣き喚いたり物を投げたりと、なかなか手が焼けるものです。買い物に行こうものなら買わない約束をしていても毎回お菓子をねだり、思いどおりにならなくて気に入らないとひっくり返って背中で回っている姿を何度も見たことがあります。

奇声を発し走り回り泣き喚く。仕方ないことですがウルサイです。鬱陶しいです、正直。

「お騒がせしてすみません」この気持ちは当たり前に持っていなくてはいけないと思いますし、ひと言断ることで周りは「仕方ないよね」という気持ちにもなります。だからと言って、卑屈になるほど曲げた腰が戻らないくらいペコペコする必要はないと思います。しかし当の親が「子供なんだから泣くのは当たり前じゃない!うるさくて当たり前でしょ、社会で子育てするもんでしょ、心が狭いわね!」と思っていたとすれば、それは傲慢でわがままに映ります。読者の皆さんにはどう映りますか?

  1. 電車内で泣き喚く幼児を連れた親が、ひと言「お騒がせしてすみません」の後、子供を泣き止まそうとあの手この手を使い、それでも泣き止まなければ次の駅で降りる。
  2. 同じく泣き喚く幼児を「子供だし仕方ないじゃん、子供は泣くのが仕事」とばかりに泣き喚く幼児に寄り添わず、スマホいじりを止めない。

1はうるさくても「頑張ってるね、お母さん(お父さん)、もう暫くの辛抱だから頑張ってね、迷惑はお互いさまだから」と“迷惑”を感じる度合いは低くなりませんか?

反対に2では「あなたの子供でしょ?こんなにウルサイんだからちょっとはあやすなり何なりしたら?スマホなんかやらずにさ!」という気持ちになりませんか?思いっ切り“迷惑”と感じていてわがままに映るのではないでしょうか。呆れる気持ちも生まれます。

迷惑だと思っていても、そこに相手の謙虚さがあれば他者はそんなに攻撃的な荒れた気持ちにならないものです。

満員電車で誰もが不快な気分になりながら我慢して乗っている時に足を踏まれる、よくあることですが、とっさに「すみません」と言える人には、「いったいなーもう」と思っても「仕方ない、こんなに混んでるんだから気をつけてよね」くらいだと思います。一方で「そんなとこに足があるのが悪いだろ!踏んじゃったもんは仕方ないだろ」と謝るどころか逆ギレ、居直ったら、踏まれた人は「なんだよ、人の足を踏んどいて謝らないわけ?」と当然イライラしますし、人によっては言い争いになったり、トラブルに発展するかもしれません。

やはり大切なのは「すみません」という気持ちを口に出すことですよね。

迷惑をかけるのはお互いさま。確かに生きていく中で、一度も誰にも迷惑をかけずには無理なので“お互いさま”と言えるかもしれません。ただ迷惑をかけている(負担をかけている/だろう)側がそれを言ってはダメなのです。

迷惑をかけられた側が「ご迷惑をおかけしてすみません/お騒がせしてすみません」の気持ちを持つ人に対して「いやいやお互いさまだから(お気になさらず)」ではないでしょうか。

似たことに“お客様は神様”という言い方がありますが、代金を払う客側がいつでも何でも神様で店側より偉いものだ!と言っているわけではなく、店を利用してくれるこの店を選んでくれた人だから神様のように大切に、という店側の感謝を込めた気持ちの表れとしての表現です。使うのは客側ではなく店側なのです。勘違いして恥ずかしい振る舞いをしている人が多くいるのは残念なことです。

誰にでもトンガってすぐに声を荒げ好戦的、謝ったら負けとばかりに自分がどれだけ正当性があるのか強い言葉で相手に詰め寄る人、どこにでもいますよね。私はそういう人を、謝ったらナメクジになる呪いをかけられているか、謝ったら死ぬ病気なんだと思うようにしています(笑)

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またもや長時間労働による自殺

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

またもや長時間労働による自殺の記事がヤフーニュースに掲載されました。

私たちは2015年に大手広告代理店の新入社員の女性が長時間労働で自殺したことをキッカケに、2019年、働く人のメンタルケア・サポートを目的にメンタル・イデア・ラボを立ち上げました。

メンタル・イデア・ラボの運営会社である有限会社時遊区は元々は広告企画制作会社です。大手広告代理店の女性新入社員の方は同じ業界の中でもエリートで、そんな人が自殺したというニュースは時遊区にとって衝撃でした。何故か他人事とは思えず、何かおかしい、モヤモヤしたものを抱きました。そんなモヤモヤを何とかしたいというのがメンタル・イデア・ラボの立ち上げの原点です。

にもかかわらず、テレビ局の岡山放送社員の方が長時間労働で自殺したニュースは、残念な思いでいたたまれません。記事を読むと、パワハラもあったと言います。私たちはパワハラやモラハラ、マタハラも含め、働く人が

自殺や精神疾患に陥る前に何とかしたい

という思いで日々取り組んできました。そのためにはもやは個人任せにせず、

企業がメンタルの健康にもっと関心を持っていただくことが重要

だと考えています。数年来、健康が強く叫ばれ、身体的な健康には力を入れている企業が増えたことはいいことだと思っています。しかしメンタルの健康となるとまだまだ不十分で、ストレスチェックもチェック後のケアはなく、個人任せであり形骸化していると言っても過言ではありません。企業としてメンタルの健康に積極的に取り組んでいるのは微々たるものです。

弊社はこうした長時間労働で自殺したり精神疾患に陥る人を無くしたい思いで、これからも取り組んでいきます。企業の短期的な売り上げには貢献できませんが、働く人のメンタルケア・サポートは目には見えない企業の人財という資産のリスクマネジメントだと考えています。

・・・

今回自殺してしまった30代の岡山放送社員の方の無念さ、寂しさ、深い孤独感と絶望感を想像すると、心が裂ける思いでいっぱいです。ご冥福をお祈りいたします。

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 【多様性】のジレンマ

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

昨今【多様性】という言葉を聞く機会が増えました。小池都知事がよく『ダイバーシティ』という言葉を使っていますね。

この多様性、どんなイメージを持ちますか?多様性のある社会、とか、多様性を尊重する社会、など、なんとなくさまざまな価値観を認めることのように聞こえます。

【多様性を認める】、この考えは素晴らしいことだと思っています。

ただ、ふと考えました。

多様性を認めるというのなら、例えば「自分は同性愛は認めない、絶対に嫌だ」という考え方があったとしても、それは“多様性のひとつ”として認める、ということにはならないのか?と。

久しぶりに出口のないトンネルに迷い込んだような感覚です。

極端なことを書くと、多様性を認めるなら『多様性なんて認めない』という考え方・価値観があることを認めることが多様性を認めるということではないでしょうか。

なんとなくモヤモヤ〜としてきませんか?

ある考え方には反対の考え方があります。多数派と少数派、マジョリティーとマイノリティー、などそれこそ多種多様な考え方があって、今までは多数派やマジョリティーが跋扈し少数派やマイノリティーは見過ごされてきた、あるいは黙殺されてきた歴史と言っていいでしょう。しかしこれからは少数派もマイノリティーも認めること、それこそが多様性を認めることだ、と聞こえなくもありません。

個人間ではその関係性において個々の多様性や価値観を認め合うことは可能だと思います。しかし一般に言われている【多様性を認める】とは、社会全体がそういう価値観を共有することを目指しているようです。ただ、これは二面性を孕んでいると思います。一歩間違えば危険なことであり、結論から言うと相当難しいことだと思うのです。

これからの社会は少数派やマイノリティーと言われてきたものも認めていこう、という動きで、これ自体は素晴らしいと思います。一方で同時に『少数派やマイノリティーは認めない』という考え方は『排除』していく風潮をも孕んでいると思うのです。つまり、

多様性を認める社会とは、『少数派やマイノリティーは認めない』、という考え方も認めなければ(あるいは受容しなければ)、本当の意味で多様性を認める社会とは言えないのではないか?ということです。

今、コロナのワクチン接種が進んでいます。接種する側がマジョリティーになりつつあります。一方で接種できない特別な理由や事情もないのに、あえてワクチン接種をしないという人も一定数います。そういう接種しない人の価値観も認めなければ多様性を認めることにはならないのではないか?と思ってしまうのです。

実際海外では、ワクチン接種済証明書導入など、接種した人は規制を緩和するという政策に、あえてワクチン接種をしない人が接種しない自由を訴えてデモを起こしていますね。個人的には接種しない人がいてもいいとは思いますが、社会全体が接種しない人がいてもいいよね、と思うかは別問題です。こう考えると多様性を認めることの難しさを感じます。高度な民度というか、高度な受容力の土壌が社会に備わっていなければ、現実は厳しいように思えるのです。

公共の福祉や公共の秩序の維持と多様性をどう折り合いをつけていけるか、そういうことも今後問われてくると思います。そうでなければ、多様性を免罪符に悪用、乱用する輩も出てくることは十分に考えられますから。

自分の考え方や価値観がマジョリティーの側にいる時は多様性を認めている気になっていても、いざ自分がマイノリティーの側になった途端、多様性を認める社会に全然なっていないことに気付いたりします。誰もがマイノリティーの側になり得る、という意識が個々人に必要になってくるでしょう。

【多様性を認める】という方向性は間違っていないと思いますが、社会全体が本当の意味で【多様性を認める】ことができるのは、数十年、いや100年以上の時間を要すると思います。まして日本はほぼ単一民族で、海外のように多民族・多人種国家ではないだけにです。しかし理想がなければ実現はしません(実現しないかもしれない)。ただ私たちが生きている間にそういう社会になるのは無理だろうということだけはわかる気がします。

仮に遠い将来、今よりも遥かに受容力があり、多様性を認める社会になったとしても、それはありとあらゆる考え方や価値観を無条件で認め合う社会ではなく、『部分的』『限定的』に認め合う社会だろうと思います。そしてその頃には、法に抵触することは論外として、多様性を認める場合の条件(個人の価値観や考え方を攻撃<誹謗・中傷含む>、強制・強要、排除、否定しないなど)が整理され、国民的コンセンサスを満たした一定の条件下でのみ多様性を認める社会の姿を想像します。

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ココロはいとも簡単に操作され、気づかないうちにアレコレ思い込まされたり勘違いしている【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

【1】に続き、バイアス詰め合わせでお送りします(笑)。

心理学の中で使われる単語で、本来の意味とは若干違う意味であったり難しい言葉があるので、先に説明しておきます。

<ヒューリスティック>:経験や先入観に基づく思考法

<アルゴリズム>:計算やエビデンスに基づき論理的な解決を目指す思考法。

では本題のバイアス詰め合わせに入ります。

【正常性バイアス】

誰もが持つ心の防衛反応の一つで、「こんなことが起こるわけがない」「自分に限ってありえない」「自分は大丈夫」と、さまざまな事態を過小評価することで誤った判断をしてしまうことです。

例1)非常ベルが鳴ってるが誰かが間違って押してしまったか、消防点検に違いない。 ← まさか火事であるわけがない。

例2)台風で避難勧告が出てるけど、ウチは大丈夫だろう、と避難が遅れる。

【イケア効果】→もちろん家具のIK E Aではありません(笑)

それがどのようなものでも、自分が手間暇をかけたものには愛着を感じ、過大評価するようになる現象のこと。

例1)よくできた買ったぬいぐるみより、多少雑でも自分が作ったぬいぐるみのほうが可愛い。

例2)高い器より土から練り、自分で作った器のほうが愛着が湧く。

自分、パートナー、母親(あるいは父親)、我が子が作った料理も同じことが言えるかもしれませんね。

【ゼロサムヒューリスティック】

誰かが得をすれば誰かが損をすると考える傾向。

【可用性ヒューリスティック】

認識→理解→決定のプロセスで、自分が思い出しやすい記憶に強くインプットされた情報だけに基づき判断する傾向。

ちょっとわかりにくいですね。例えば、あなたがワイン好きとします。若い頃、初めてフランス旅行へ行った時に飲んだワインの美味しさが忘れられず、世界の多くの国で作られているにも関わらず、フランスで作られたワインを好んで飲むということです。

【ザイオンス効果/単純接触効果】

接触する機会が増えるほど特定のモノやヒトに対して好印象を持つようになる現象のこと。

例1)毎朝コーヒーを買ういつものコンビニで気さくな店員さんに良い印象を持つようになった。

例2)ラジオでよく流れる曲が好きになる。

【心理的リアクタンス】

他者から選択を強制されると、それが自分にとってよい提案や意見であっても反発してしまう。

【舌先現象】

誰でも経験したことがあると思いますが、人と話していて聞かれたことの答えを思い出そうとしていて、喉元まで出ているのに(あるいや頭にはっきり浮かんでいるのに)出てこないこと。

例1)「金曜のドラマ、面白いよね」「面白いよねー、そういえば誰だっけ?あの途中で失踪しちゃう人!」「あー、わかるわかる、キャスターもやってるあの人だよね?名前なんだっけ?」 ←二人して舌先現象ですね(笑)

【確証バイアス】

自分に都合のよい情報ばかりが目に留まり、都合の悪い情報は目に入りにくくなること。

「ほら、言ったとおり!」「やっぱり思ったとおりだ」

これは、自己正当性を裏付ける情報ばかりを集め、自己の意思や情報と反証する情報は無視しがちなことから、仕事でも詰めの甘さが露呈し失敗しがちです。

誰にでもあるバイアス。自分にもバイアスがあることや、どんなバイアスがあるのかを知り、選択決定する場面や他者関係の見直しに役立てて本当の客観性を意識してみましょう。

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ココロはいとも簡単に操作され、気づかないうちにアレコレ思い込まされたり勘違いしている【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

社会生活を送る中で人は些細なことから人生を左右する大きなことまで、あらゆる選択の日々を送っています。

「お昼は何を食べようか」「晩ご飯は何を作ろうか」「シャンプー変えてみようかな」といった小さな選択→決定から、「クルマはどのタイプがいいか」「病院に行くか行かないか」「家を買うか借りるか、マンションか戸建か」「転職するかしないか」など比較的大きな選択→決定まで、どんな選択もまったくしない日は一日もありません。

意思決定を『すべて自分一人で決めている』『誰のどんな影響も受けてないもんね』なんて思っているアナタ・・・そんなアナタに今回はいろいろな認知バイアス詰め合わせセットをお届けしたいと思います。

脳科学や社会学、心理学だけでなく、学校でも個人的には中学生あたりから認知バイアスについて教えてもいいと思っています。例えば道徳や総合の科目あたりで。

思い込みや思考の偏りはなぜ生まれるのか?認知バイアスにはどんな種類があるのか?などなかなか面白い授業ができそうです。

以前、“錯覚”という記事でバーナム効果などサラッと書いたので記憶にある人もいるかもしれません。企業広告に政治的プロパガンダ、SNS、と私たちは気付かぬうちに実に多くの無作為、作為的なバイアスに影響を受けながら意思決定をしています(誘導されている?)

認知バイアスは誰にでもある思考の偏り/思い込みです。いくら「自分はちゃんと物事を客観的に見れている」と思っていても、実は誰もが自分を客観的に見ることは苦手なものなのです。“自分を客観的に”、これこそが前回、前々回で話をしたメタ認知に当たります。

【自己奉仕バイアス】

同じ失敗でも他者の時は「その人に原因がある」と感じ、自分の時には「外的要因があった」と感じることです。

例)Aさんが忘れ物をした時には「出かける前にちゃんと確認しないから、いつもドジだからもう!」と感じ、自分が忘れ物をしてしまった時には「出かける前に宅配便が来たから/昨夜彼女(彼氏)が遅くに来たから・・・」などと忘れ物をした原因を外的要因に関連づけて考えます。

この自己奉仕バイアス、めちゃくちゃ厄介です。なぜなら、他者からは“自分のことは棚に上げて偉そうに”と映るからです。

【確証バイアス】

自分の仮説や根拠のないジンクスを信じてしまい、反証する意見や情報を無視するのが確証バイアスです。

例)AB型の人って二面性があって付き合いにくい/A型は神経質だ←人は誰でも多面性を持ってますし、几帳面であることに血液型は無関係です。

アイツは雨男だから←たまたま雨が続いただけで雨男と思い込む。黒猫は不吉だ←大昔、魔女狩りがあった時代から悪魔の使いと言われていますが、黒猫はただ毛の色が黒いだけで不吉でも何でもありません。黒が不吉と考えるバイアスですね。黒猫にとっては迷惑以外の何ものでもないでしょう。

確証バイアスは誰にでも見られるかなり強力なバイアスですので、心当たりがある人も多いのではないでしょうか。

長くなりましたので2回に分けます。次回は認知バイアス三昧でお届けしようと思います。

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集団心理【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回、群衆心理についてお話ししました。2回目となる今回は、組織で当たり前のようにパワハラ・モラハラが横行し、メンタルを病む人が増加の一途を辿り、痛ましいいじめが原因で自殺も後を絶たないことから、パワハラ・モラハラ、いじめ問題を群衆心理から考えてみようと思います。

いじめ問題というと子供の間のこととイメージされやすいですが、2019年秋に神戸の小学校で教員が教員をいじめるという事件が起きています。

パワハラやモラハラ、嫌がらせやいじめを目にしても、

「いい加減にすればいいのに」

「誰も止めないの?」

「さすがにやり過ぎじゃないか」

と思っても誰も止めず、なるべくなら関わらないように見て見ぬフリをする・・・通りすがりの道端でなくても学校や組織でもよくあることではないでしょうか。

関わることで自分にとばっちりが来たり、巻き込まれて面倒なことになるのを避けるために無視する(見なかったことにする)、これは自分の身を守るための合理的な行動で、心理学ではそれを【傍観者効果】と言います。

わかりやすく説明すると、事故や事件、災害や傷病者がいるなど何らかのトラブルがある状況において、自分以外にも多くの他者がいる時に自分からは積極的に行動を起こさなくなることを傍観者効果と言います。

傍観者効果が起こるにはいくつかの原因があります。

○責任の希薄、分散化

人は集団の中の一人になることで、一人の時より自分の責任が多数に分散され軽くなります。責任が分散されることで、自分からは行動を起こしにくくなったり、責任感を感じにくくなるのです。

また見て見ぬフリをしている人がいる状況では「自分だけが見て見ぬフリをしているわけではない」と自らを正当化することで、自分が何も行動を起こさなかった罪悪感や、ひょっとしたら向けられるかもしれない非難を意図的に軽減しようとする無意識な心理も働きます。

○無知の多元化

自分以外の多くの他者が積極的行動を起こしていないことから、目の前にあるトラブルは早急に対処するような問題でもないと考えてしまいます。パワハラや嫌がらせ、いじめに遭っている人がいても、皆が見て見ぬフリをしているのを見ると「別に自分がわざわざ上(あるいは先生)に報告しなくてもいっか」「きっと誰かが報告してくれるんじゃないか」と他の人の行動を見て判断してしまったりもします。

○評価懸念

自分以外は様子見をしたり見て見ぬフリをしている中で、もし自分が積極的に行動したことを他者に否定的に捉えられたら(いい格好しやがって/偽善者ぶっちゃって/次のターゲットはアイツだな)、という恐れや不安のことを言います。

良かれと思っての行動を『面倒なヤツだ』などとマイナス評価されるのを恐れることが評価懸念です。評価懸念は群衆心理で群衆抑制とも言われます。

面倒なことになるかもしれない(ならないかもしれないけど)ことにはなるべく関わらない、自分自身や家族を守るために必要な時もありますよね。気ままな一人暮らしではなく、守らなくてはいけない子供もいるので当然ですが私にもあります。

群衆心理や傍観者効果という言葉があり、それにはどんな意味があり何が原因になっているのかということをお話ししたかったので、“見て見ぬフリ”は良くない、やめるべきだ、という話ではありません。

私たち一人ひとりには生活があります。職場において孤立しかねないリスクを自ら背負い、大切な生活に悪影響が出る可能性があることは誰でもしたくありません。見て見ぬフリも大切とは言いませんが、仕方ない時もあります。そこで自分のこととして何を思うか、考えるか・・・それが大切な気がします。無関心や他人事として思考停止にならないようにしたいものです。

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集団心理【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

人が一人ではなく大勢集まり【集団】【群衆】になると、一人の時とは違う独特の心理が働くようになります。

良くも悪くにも働くのが群衆心理ですが、今回はマイナスと働きやすい特徴的な心理についてお話ししようと思います。

○感情の伝播

以前にも感情の伝播についてお話ししましたが、その中でも特に“怒り”(ネガティブな強い感情)の感情が伝播しやすいことを書きました。

感情的になると当たり前ですが、論理的に考えることはできなくなります。『自分は冷静だ』と思うのは勝手ですが、怒りという不快感情の中でいつも以上に冷静でいられる人などまずいません。それでも『自分は冷静だ』と言えるなら・・・、

メタ認知、大丈夫ですか?

○無名性、無責任性が生まれる

自分一人の時と違い、群衆の中の一人になることで自己の言動に対する責任感が弱くなります。それは私たちが普段感じている“自分”という意識が、集団の中では“大勢の中の一人”になってしまい薄くなることで起こります。

わかりやすいのが“赤信号みんなで渡れば怖くない”です。渋谷のスクランブル交差点で誰一人信号無視をしていないのに、自分一人が渡ったとしましょう。なんだか後ろめたさというか居心地の悪さを感じませんか?でも、多くの人が小走りに次々と渡る中で自分が一緒になって渡っても、『私だけじゃない、みんな渡ってるし』という意識が生まれませんか?

同じ信号無視でも一人と集団では違う心理が生まれているのがおわかりいただけたでしょうか。

○被暗示性

これは暗示にかかりやすさのことです。一人より集団の中にいるほうが被暗示性が高まり、暗示にかかりやすくなります。

その場の空気に呑まれ流されやすくなり、ハッキリと意思表示をする人や大きな声(身振り手振り)の人に、つい従いやすくなったり、共通意識を持ちやすくなってしまうのです。

良い例が、よく公民館あたりでおこなわれている「健康器具無料体験」などと謳い、参加すると心地良いマッサージチェアに座りながら手土産にラップやお掃除シート、ティッシュなどが配られ、「あー、得した!」と思っていると「ご参加いただいた皆さまだけに特別価格でご案内です、残り○点しかありません」と高額(に見える)な羽毛布団が出てきたりするわけです。

「特別価格」「残り○点」なんて言われると、それが必要ないものでも「え!」「お得!」となるのが大多数の人の心理、そこで数人のサクラが「私、買うわ!」なんて名乗りをあげらたらもう後は言わずもがなです。

まんまと定価5千円のフェザーケットを5万円の羽毛布団のように思い込まされ、訳がわからないうちにホイホイ契約書にサインしてしまうのです。

集団心理を身近に感じてみるために参加してみました、私(笑)

もちろん羽毛布団は要らないので買っていませんし、「こんなにお土産ももらっちゃったし」と心の呵責を感じないためにお土産も辞退です。そもそも友人でもない人が勝手にくれるものに何の呵責も感じないタイプではありますが(笑)。

混じってみたのはただの実験であり、ただの野次馬根性だけです。何人ものご老人が毒牙にかかっていらっしゃいました・・・。

多くの人が行き交う雑踏で誰かが倒れても「自分が119番(あるいは110番)しなくても、誰かがやってくれるだろう」と考える人が多いのが現実だと思います。でも、周りに誰もおらず自分一人しか居なければ、そのまま放ったらかしにしてはいかないのではないでしょうか。

個人が集まり集団になる。見て見ぬふりは組織でも至るところに存在しているように思います。

次回では群衆心理〜傍観者効果についてお話しします。

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