ASD積極型/受動型【2】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、周囲の無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

三つ組の特性があるASDにはさまざまなタイプがあります(ADHDにも3つのタイプがあります)。何度も書いていますが、三つ組の特性にも人により濃淡があります。こだわりの種類も違えば、こだわりの強さも違う、他者への共感が低いASDでもADHDを重複していると共感力を持ち合わせていたり・・・。

  • 一人が好きで他者との関わりをできるだけ避けようとする故に、ミステリアスで“変わり者”と見られやすい孤立型
  • 自分から積極的に社会や人と関わるのは苦手だが、基本受け身で誘いがあれば交流するので、一見何の問題もないように見える受動型
  • 他者と積極的に関わりを持とうとするが、空気を読めず失礼な発言、場違いな言動が多く、「ちょっと、ヘン?」と遠巻きにされがちな積極奇異型。

息子はADHD(不注意/衝動性/多動混合型)強めのASD積極奇異型で、人が大好きで他者と関わりたい、コミュニケーションを取り仲良くなりたいタイプです。彼のさまざまな特性をわかってはいても、共に生活をしている親としては、しょっちゅう小地雷を踏まれ傷ついたりモヤモヤしています。

「母さんの唐揚げ美味しいよね」と言ってくれれば素直に喜べるものを「母さんの唐揚げは○○(スーパーや店)よりマシだよね」という言い方をニコニコしながらするので、モヤったりイラッとします。彼としてはきっと褒めているつもり、感謝しているつもりなのでしょう。

ある時は「○○って知ってる?」と聞くので「知らないなぁ」と言うと、「知らないの!?」と、さも知らないことが信じられないという返し方をしてきます。「そうなんだ、○○というのはね・・・」と繋がればモヤらないものを「そんなことも知らないんだ」ニュアンスで返してくるので微カチンです。親がそう感じるのですから、真っ赤な他人や他者はどう感じるのか言わずもがなです。

毎回毎度「言い方考えなさいよっ!」です。

この“微妙さ”は他者を微カチンさせるのに十分で、これが繰り返されると「なんかあの人と話してるとイライラするんだよね」「楽しくない」になります。もちろん彼らにまったく悪気はないのをわかっていますが、悪気がなければ他者の気分を害してよいわけでも、発達障害があったとしてもそれが免罪符にもなりません。裏を返せば、百歩譲って正直で素直という言い方ができなくもありませんが、やはり他者を不快にしやすいことに変わりはありません。

積極奇異型はバウンダリーオーバーしがちなので、それを不快と感じる人も出てきやすい気がします。知り合ってから関係を築いていくには、それなりの時間が必要だと思いますが、積極奇異型にADHDもあると人見知りをせず人懐っこいので、他者ペースを考えずグイグイ行きがちで、時としてそれは無神経で無礼に映ります。無邪気なのですが「関わって大丈夫な人かな?」と不安になる人、疎ましく思う人もいるでしょう。

これはどちらのタイプにも言えることですが、言ったことはやってくれるのですが(息子はADHDもあるのでマッハで抜け落ちますが)、「えっ!?そこまで言わなきゃわからない?」「考えればわかるよね?」も日常的に多くあります。ASDがイマジネーションの障害と言われる所以です。

ずいぶん前ですが「食べ終わったらお皿、洗っておいてね」と言ったところ、お皿しか洗ってなかったことがありました(笑)お茶碗は?お椀は??と思いましたが、字義どおりにしか受け取れず、その先にまで考えが及ばないASDの息子に、私は「食べ終わったら使った食器類を全部洗ってね、お皿の裏も忘れずに」と言わなければいけなかったのです。←定着するまでそれを毎回毎回言うのはかなり面倒に感じます。

同じように受動型と思われるパートナーを持つ友人も、「指示を出せばそのとおりに動いてくれるけど、なぜその指示を出したのかその意図、意味までは考えられないから、少しでも指示が足りないと物の見事に抜け落ちる」と話していました。

また、ASDには抽象的/概念の理解は難しい人が多く「適当に」「そのあたりを」「なるはやで」などはまず伝わりません。「3ページまで」「一番上の引き出しと本棚の二段目まで」「午後までに」のように具体的な指示が必要です。

抽象的な概念といえば、例えば“反省”を例に出します。

何かしでかしたり間違った時に言葉として(形として?)、“謝罪”はできますが「何について叱られた」のか、わかっていないことが多いので、謝罪→反省(どこが悪かったのか)→振り返り(自分はこうやってしまってたな)→行動変容(次はこうしよう)に繋がらず、同じ過ちを繰り返しやすい傾向にあります。もちろん、そこには先の見通しを立てることが苦手、イマジネーションの障害、独特の捉え方をする認知の歪みなど、特性からくるものもあるので、互いの認知を出し合い、擦り合わせや打開策を考えなければ「いつも口ばかり」で使えない人と映ってしまいます。

ワーキングメモリーが少なくキャパシティも小さいため、幾つもの事案が重なって叱責されていると、一体何について言われているのかわからなくなります。『遅刻が多く朝礼に間に合わないため業務連絡が行き届かない!』と叱責されると“何について”叱られているのかわからなくなります。要は『遅刻するな』ですが、文節が多く長いと理解しにくい特徴があるのです。

最終回となる次回は、受動型にフォーカスしてお話ししたいと思います。

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ASD積極型/受動型【1】

⚠︎:発達障害は先天的な脳の発達の偏りなので、親の躾や環境、また、本人のせいでもありません。発達障害をややこしくしているのは、周囲の無理解、無知からくる不適切な対応などでさまざまな神経症や精神疾患を併発したことによる二次障害といえます。

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回まで【ASD孤立型重複なし】を特集していたので、今回から数回にわたり、日本人に多いと言われている受動型、積極奇異型についてお話ししようと思います。

息子も発達障害ですが、彼はADHD/ASD積極型の重複で、DCD(発達性協調運動障害)もあります。ド定型っぽい友人はもちろんのこと、周りにはクライエントを含め、さまざまな凸凹を持つユニークな友人たちがいます。

近年、発達障害という言葉が社会的に市民権を得て理解も進んできた感はあります。グレーゾーンも含めると7〜8人に一人は発達に何らかのアンバランスを持っていると言われています。と同時に、『なんちゃってアスペルガー』など都合よく発達障害を自称する人も増えてきた感があります(『なんちゃってアスペルガー』を都合よく自称する人は概ね定型だったりします)。

“発達障害”と一括りにされがちですが、発達障害であってもASDだけ、ADHDだけ、SLD(限局性学習障害)だけ、という人はほとんどいません。そのほとんどが重複です(故に、前回までの特集の『ASD孤立型重複なし』の人は本当に稀な存在)。

また、本人が気付いていなかったり、周囲の無理解から発達障害を拗らせて二次障害を併発してしまっている人も多く見られます。二次障害になっていると、表面症状にばかり囚われ、根底にある発達障害を見逃すこともあるので、発達障害に詳しい精神科や心療内科で相談しなければ、単に「鬱ですね、お薬出しましょう」になってしまいます。この場合、根底にある発達障害を無視しているので、いくら薬を出されても改善は見込まれません。もちろん、発達障害であっても日常困り感に対処した薬であれば対応できることはあるので(ADHDにはストラテラ、インチュニブ、コンサータなど)詳しいクリニックでよく相談することが大切です。

重複があると特定の場面、または場面場面でどちらか、もしくはどちらもの特性が複雑に表れ、共通する特性であっても濃淡に個人差が大きいため、簡単に“ASD”“ADHD”と言えない現実があります。

ASDには【積極奇異型】【受動型】【孤立型】【尊大型】があり、濃淡はあっても三つ組の特性を持ち合わせているのは同じです。発達障害は生まれ持っての脳の特性(私は脳のクセと捉えています)ですが、尊大型については、いきなり【尊大型】ということはなく、受動型→尊大型、孤立型→尊大型という過程を辿った結果のタイプです。

その過程には歪んだ認知や人間関係/周辺環境などが複雑に絡み、尊大型は家庭ではモラハラ、職場ではパワハラになりやすい特徴もあります。しかし、モラハラ/パワハラがあるから必ずしもASD尊大型ではありません。

いますよね、例えば普段から偉そうで人を見下すタイプの人(笑)。コンビニやスーパーで「オレを誰だと思ってるんだ!」と他者にトンチンカンに絡んでいたりします。そういう人は、ただの勘違いしている人か、やたら自己愛を膨大化させてしまった痛々しい人だろうと憐れみの眼差しで生ぬるく観察していみるといいと思います。要はASD の類ではなく『ただの器の小さい人』ということです。

テレビなどメディアで取り上げられることが多くなったASDやADHDですが、その取り上げ方はASDの特性、ADHDの特性、という単独での取り上げ方をしている番組がほとんどです。しかし現実はASDとADHDの重複を持っていることがほとんどです。そのせいか、ADHD重複があると見えやすい(気付きやすい/困り感として表れやすい)特性だけを見て、まとめてアスペルガーだADHDだと捉えがちなのが現状です。この点は気をつけなければいけないところです。大概は、ASDとADHDの両方を持ち合わせていると思って間違いないでしょう。

「遅刻が多い」「忘れ物ばかりする」「片付けられない」これらはADHDによくある特性ですが、ASDにも一見同じ表れ方をする場合があります。ただ理由がまったく違うので対応策も違ってきます。

忘れ物が多い、しょっちゅう物を失くす、この特性がある時点で、ASDであってもADHD(グレーゾーンも含む)重複と考えます。ASDとADHDの両方を持ち合わせている可能性が大ということです。

【ASD重複なし】は時間にキッチリ(実際、他者を巻き込みながら時間に並々ならぬこだわりを持つ人もいます)、また、こだわりやマイルールに忠実なので時間はキッチリ守ろうとしますし、部屋が一見乱雑に見えても本人はどこに何があるのか把握しているので、他者がそれを動かさない限り、物がどこかに紛れ込んだり失くすことはありません。自分のルールに則って持ち物を整理/管理しているので(出かける時に必要なグッズ、身支度を整えるのに必要なグッズのように)、よほど想定外のことが起きなければ、まず忘れ物もしません。

【ASD積極奇異型】は基本的に人見知りをせず、人と関わることが大好きなため、バウンダリーを無視し(もちろん空気は読めません)、ガンガン他者領域に踏み込んでいく傾向があります。ADHDと同じく人懐っこく一見人当たり抜群なので、最初は仲良くなれるように思えますが、慣れてくるとコミュニケーションコストが高く、疲れることや無神経な言動が目につき、最終的に鬱陶しがられ遠巻きにされてしまいます。人間関係の距離感が掴めないタイプですね。まさに息子はこのタイプです。

【ASD受動型】は日本で一番多いタイプなのではないでしょうか。同じく空気は読めませんが、積極奇異型のようにバウンダリーを無視してガンガンいくことはありませんし、穏やかで人当たりが良く、落ち着いていて、一見おおらかに何でも受け止めてくれるように感じるのが受動型です。

人当たりの良さからASDで結婚している人の多くが受動型だと思われます。穏やかで何でも受け入れてくれるようなおおらかさを感じるので、結婚生活に向き不向きはともかく、結婚に一番近いASDと言えるかもしれません。

ただ、そこはASDなので家庭生活を営むパートナーをカサンドラにしてしまう可能性は受動型であれ、どのタイプも同じで、悲しいかな高確率で相手をカサンドラ化させます。多少の違和感があっても踏み込んだ関係にならなくてはわからないことが多いので、「結婚する前にそういう人だとわかって結婚したんでしょ?」と言われても困ってしまうのです。←わかっていたら結婚しないかもしれません。

ASD孤立型がダントツでパートナーをカサンドラ化させると思っていますが(笑)、次は受動型でしょう。

ASD積極奇異型は鬱陶しがられ、ASD孤立型は他者に関心が非常に薄いので、お付き合いに発展しない、「何を考えているのかまったくわからない」とお付き合いは終了になり、結婚まで到達しづらい気がします。

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ファシリテーション【3】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ファシリテーターが守らなくてはいけない(参加者にも守ってもらうよう周知する)ことに、“守秘義務”があります。

ここではDVに悩む人が集まる自助グループのファシリテーターで考えてみましょう。

DV問題自体が表に出にくくプライベートでとてもデリケートな問題であり、最初に参加するのにハードルが高いだろうことは、想像に難しくありません。

ただでさえ初対面の人を相手に自己開示するのは、とても勇気がいることですし、いくら同じDVに悩んでいる人の集まりとはいえ、最初からオープンマインドは難しいものです。

誰からも否定されず、あたたかく受容してもらえる安全地帯であると感じることに加え、この場の話は外に一切持ち出されないことがわかれば、張り詰めた気持ちに多少は安心感が生まれるのではないでしょうか。

相手を認めることは、信頼関係を強化します。

最初に顔を合わせる人に対して不安はあっても信頼なんかありません。笑顔で声がけ、挨拶、自己紹介、「感じよい人だな」「話しやすそうな雰囲気」このように感じてもらうのが最初の一歩です。ビジネスでも同じことが言えますね。

先ほども書きましたが、受容は信頼関係を強化します。この場合、受容は傾聴とほぼ同じ意味を持ちます。

傾聴は“安心感”“信頼”“本音”“気付き”を与えます。そして、参加者の話に集中し最後まで遮らず、目線や頷きを交えながら話を聴きます。沈黙があっても無理に発言を促さず、あたたかい気持ちで見守りながら言葉が出るまで待ちます。自分の価値とは違う考えであってもジャッジすることは避けましょう。

否定されず遮らず、肯定的に自分を受け止めてもらえたと感じると人は安心感を覚えます。安心感がなければ本音も出ないものですよね。特に管理職やチームのリーダーである立場の人は、身につけて損はないコミュニケーションスキルだと思います。

受容は安心感のベースに、安心感は信頼関係のベースになります。

信頼できると感じれば自己開示のハードルは低くなり、本音が話しやすくなります。

ここまででお気付きだと思いますが、ファシリテーターは「自分は/自分が」が強い人には向いていません。自分(の考えや意見/感情)を前面に出やすい人は他者を肯定的に受容するスキルが低いので、まずはアサーションから傾聴を学んでみるのがよいと思います。いますよね、こういう上司(笑)

(営業マンという)プレイヤーとしては優秀でも(部下を管理する)マネージャーとしては必ずしも優秀とは限らない、周りに思い当たる人はいませんか?

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ファシリテーション【2】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

前回ざっくりとファシリテーターについてお話ししましたが、今回はもう少し踏み込んで具体的にファシリテーターの担う役割について書いていこうと思います。

よりイメージしやすいように、ここでは話し合いにおいてファシリテーターがおこなっていくことを考えます。

場作り→コミュニケーションスキル→合意形成

がファシリテーターの必須スキルです。

①雰囲気作りやそのチームがおこなっていく活動スキームを考え、決定します。

②参加者が自由に意見や考えを出しやすい雰囲気作りをしながら、各々の発言を肯定的に受け止め、発言者が偏らないように目配りをします。

③思いを言葉にするのが得意ではない人にも無理なく発言できるようにサポートしながら発言を促し、相互理解が深まるように全体を捉えます。

④さまざまな意見や考えが出揃ったところで、議論を噛み合わせながら内容を整理し、論点を絞り込んでいきます。参加者全員が議論の全容を理解できているのか、把握していくことも大切になります。

⑤合意に向け意見の取りまとめをし、より創造的なコンセンサスに向かいます。合意/納得が得られたら今回の活動をフィードバックし、気付きや学びを参加者全員で共有します。

場作りをするにあたり、ファシリテーターが意識しなくてはいけないのが、集まりの“目的”“目標”を明確にすることです。

と同時におこなうことに基本的なルールがあります。キツキツに設定する必要はありません。時間厳守、発言時間(3分以内など)、発言中は遮らない、など。

次にコミュニケーションについてです。

信頼できる人だと思われなければ自己開示できないものです。そのためには参加者一人ひとりの話に興味を持ち、肯定的に聴く姿勢、“傾聴”スキルが必要になります。

資料から目を離さず発言している参加者と目線を交わさないファシリテーターを発言者は、それを眺めている他の参加者は『この人は自分の意見を尊重し、関心を持ち話を聞いてくれている』と感じるでしょうか。何のアクションもなく、目を合わせないのに『ああ、そのとおりですね、わかります』と言ったところで、意見を“受容”してもらえたと感じるでしょうか。

肯定的に受け止められていないと感じると、人は話をしたくなくなります。招かれざる客か?とアウェイ感でいっぱいになり、居心地が悪いと感じる参加者も出てくるでしょう。

すべての参加者に対し公平であることも信頼感に繋がります。顔見知りや知り合いにはフランクに笑顔で言葉多く話しかけるのに、苦手な人や初めての人に対する態度が違っては、信頼してもらうことはできません。

学生時代、贔屓する先生のことをどう思っていたのか思い出すと、よくわかるのではないでしょうか(笑)

長くなりましたので、次回は“信頼と受容”について掘り下げて終わりにしたいと思います。

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ファシリテーション【1】

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

ちょっとご無沙汰しておりました(笑)最近気温がこの時期にしては低いな、と感じています。体調は大丈夫でしょうか?

さて、ファシリテーター、ファシリテーションという言葉を聞いたことがあると思います。

リーダー、司会進行、議長などとは違い、もちろんカウンセリング、メンターやコーチングとも違う・・・ファシリテーションって何?ファシリテーターって一体何をする人?

今回はファシリテーター、ファシリテーションについてお話ししようと思います。

ファシリテーションとは、ワークショップやプロジェクト、会議などにおいて、相互理解を深め、自律的に課題解決に向け合意形成のもと、業務遂行し問題解決に向かうことを言います。

ファシリテーションにはチームに対し“場作り”“対話力”“合意形成”という手法を使うため、この3つはファシリテーターの必須スキルになります。

解決を促しサポートしていく立場から、支援者という位置付けが一番適切かもしれません。

コーチングもファシリテーションも課題に対し“自律的な解決を目指す”ことに変わりはありませんが、2つには明確な違いがあります。

コーチングは個人に対しておこなわれますが、ファシリテーションはチーム、集団に対しておこないます。もう一つの違いは、カウンセリング/セッション/コーチングでは個人に対して“自身の認知/行動をより深くフィードバックしていくことから得られる気づき”により問題解決を促すのに対して、ファシリテーションでは他者(その場に集うメンバー)と関わる相互作用からの気づきにより、問題解決の糸口を模索します。

ファシリテーションでは他者との関わり合い、協力や意見交換をする中で互いの違いを知り、生まれるシナジー効果を狙います。

この『相互成長』が一番の違いだと考えます。

次回はファシリテーターの役割についてお話しします。

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マスク、どうしてる?

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

ゴールデンウィークは如何お過ごしでしたか?仕事だった人、帰省した人、レジャーへ行った人、さまざまだったと思います。コロナ5類移行直前だったこともあり、ほぼ気兼ねなく過ごせたゴールデンウィークだったのではないでしょうか。

東京は外国人観光客が増えたと実感します。私が住む地域では普段見かけない欧米系の外国人やファミリーらしきグループが、大きなキャリーケースを引っ張る姿を見かけるようになりました。電車や駅ではそんな外国人を多く目にします。

日本も今週から5類に移行し、マスクや手指消毒も不要になりました。マスクをする自由はあっていいと思う一方で、“いつまでもマスクをする日本人”として、一部非難めいた論調があるのも事実です。だからとて『外せ』と強要するのは明確に違います。

全体としては様子見のように思いますが、マスクをしていることにいちいち目くじらを立てる必要もないと思っています。

個人的には公共交通機関を利用する時はマスクをしてしまいます。してしまう、という心理が働くのは、やはりまだコロナに感染している人がいるということ、飛沫感染するということ、有効な薬も治療法も確立されていないということ、この3点がどうしても引っかかって、電車内ではマスクをしてしまいます。

両親が高齢であること、身近に基礎疾患のある友人がいること、こうした理由もあります。

特に夜の帰宅時間帯の電車は、アルコールも入って機嫌よく話している乗客もいるので、予防というより気休めにマスクをしています。医学的に有効なのか有効でないのか、ということを考えても両論あるようですし、素人の私が有効性の有無を知る術もなく、だったらマスクをして、それでもし感染したら諦めがつくかな、という感じです。免責と自責の念を抱かないためですね(笑)

ただ街を歩いている時はマスクは外しています。これはもう屋外では外してもよい、となってからそうしています。だからマスクを持ち歩いて過ごしています。

企業へ行くことがありますが、大体どこの企業でもマスクをしている人、していない人、半々の印象です。表情がわかりにくいという欠点はありますが今さらという感もありますし、私はマスクをする自由はあって然るべきだと思います。また、マスクをする事情がある人も一定数存在しているはずです。

接客業で働く人たちは概ねマスクを着用している印象です。しばらくは外さないように会社から言われていると想像します。

一方で、ルッキズムによってマスクを外せない、という問題もあるようです。これは本城が後日どこかでコラムに書くと思いますが、これは感染予防ということではなく質が違う問題で、メンタルに関わってくるデリケートな問題だと認識しています。

ルッキズムについて、ここでは顔に限定しますが、コロナ以降に出会った人はマスクをしている顔しか知りません。顔全体を見た時、心の中で一瞬『ん?誰だっけ?→あぁ!◯◯さんだ!→そんな顔してたんだ!』という感想を抱くと思います。

マスクだけの印象で可愛い、カッコいい、綺麗、シブいなど勝手に無意識にイメージを膨らませていたことが原因だと思いますが、それは仕方のないことです。

大事なのは、実際に相手の顔全体を見た時に、差別的感情や感想を持たないことだろうと思います。例えば『案外ブスだな』とか『えっ!?そんな顔だったの!?(ガッカリ)』という感想です。顔を全体を見て抱く感想はお互い様ですから、むしろ新鮮な気持ちを抱いてほしいと思います。

同じ人ですが新たに出会ったみたいな感覚ですね。途中で調味料を加えると味変して二度美味しい思いをしたことはありませんか?そんなイメージです。

同じ相手に二度出会える、新しい出会いとは違った新鮮さを感じると思います。これはコロナでマスク生活を強いられた副産物ですが、人生でそう経験できるものではありません。

ただ気をつけなければいけないのは、そのことを下手に口にすると褒めたつもりでもハラスメントや差別発言と捉えられるご時世なので、何も言わずにスルーすることが肝心になります・・・。気心知れた関係の相手限定で褒めましょう(笑)

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『多様性』どこまで認める?【組織】

メンタル・イデア・ラボ、AEのスミです。

前回、『社会としてどこまで多様性を認めるか』ということを書きました。今回は【組織】、つまり企業の中において、どこまで多様性を認めるかを書こうと思います。私どもが考えるひとつの提示であって、決してこうあるべきという意味ではありません。

組織は社会と違い、狭い世界になりますが、社会篇の中で書いた『個人の権利を侵害しない範囲内』であることは、組織にももちろん当てはまることは言うまでもありません。

その上で、どこまで多様性を組織(企業)として認めるかを考えます。

組織の場合、より社員個々人の価値観をいかに理解し、あるいは説得していくかが問われると思うので、社会としてよりも複雑な問題を孕みそうです。学校でも同じかもしれません。

例えば、結婚。今の時代、結婚観は人それぞれです。今の団塊の世代の人たち辺りまでは専業主婦が多かったように思います。つまり男性は働き、女性は家庭を守るという長年日本を覆っていた結婚観です。当時女性は就職して結婚したら退職することが一般的でした。寿退社という言葉があったぐらいです。

今は違います。経済的な事情もありますが、それとは関係なく女性もキャリアを積み、働き続けたいと考える割合が当時と比して増えています。しかし、そこで今問題となっているのは、昔の結婚観と今の結婚観の狭間で、仕事(女性)・家庭(妻)・育児(母)の1人3役の重圧を背負わされた女性たちの存在です。

これは今最もホットな問題でもあります。組織の育児に対するフォローをどう構築していくかが問われていることでもあるからです。国ができることは限界があります。男女問わず、育児しやすい労働環境を創出するかは個々の組織で考え、取り組まなければなりません。社員個々人に合った具体的な施策は難しいかもしれませんが、組織に最も大事なことは、育児しやすい職場環境であることを社員に実感し安心してもらうことではないでしょうか。

恐らく、組織にとって多様性をどこまで認めるかの必要条件は、さまざまな価値観を持つ社員に、最大公約数的安心感を与えること、ではないかと思います。心理的安全性はそのひとつの解であり手法だと思います。

一方で、組織には社風という企業文化・企業風土があります。組織規模が小さくなればなるほど、トップの考えがダイレクトに企業文化となり企業風土になります。大企業であれば、長年培われた伝統がそれに該当すると思います。いろいろな組織があって当然だと思いますが、どんな組織であれ、これからの組織に求められるのは、社員の多様性をいかに認めることができる企業文化へと進化(深化)させることができるか、だと思います。自治体も例外ではありません。

思うに今組織が直面している課題は、社員の多様性と企業文化の間にある溝をどう埋めていくか、ということだろうと思います。

例えば産休・育休を考えてみると、制度は組織にあっても取得しにくい社風であれば、その制度はお題目に過ぎず、ポーズに過ぎません。活用されてはじめて制度が活きるというものです。

もっと言えば組織にそのような制度があるにも関わらず、直属の上司がいい顔をしない、あるいは取得しないように圧力をかけてくることもあるでしょう。そのような企業文化が蔓延ったままだと、社員の多様性など到底認められることはないと推察できます。

組織としてどこまで社員の多様性を認めていくかという問題は、即ち、溝を埋めていくかは組織の文化をアップデートさせる必要があると言えます。これにはトップをはじめとする経営層の思考回路を変える必要があります。

時代に支持される企業風土をどのように作り上げていくか、という仕事は経営層にしかできない仕事だと思います。業績や戦略を考えることも大切ですが、それを実行するのは人、社員です。その社員が能力を存分に発揮するためには、企業文化、企業風土というものがかなり心理面に影響を与えます。

とにかく行動しろ、失敗の責任は部長である私が取る。という企業文化であれば、社員は恐れることなく果敢に挑戦しようとするでしょう。失敗したら怒られる、責任を追求される、と思わせる企業文化、企業風土であれば、社員は挑戦して失敗するリスクを冒そうとは思いません。それはその企業にとって長期的な視点で見れば損失に繋がることにならないでしょうか。

ベンチャー企業が元気な傾向にあるのは、組織規模が小さくトップも若手が多いことを背景に、長年培った伝統も歴史もないため、いい意味で過去に捉われず、トップをはじめ社員の多様性の活用が一応できているからではないか、と思われます。(トップと社員の世代が近いせいか価値観を共有しやすい、あるいは立場の距離感も近いため、必然的にコミュニケーションが活発になり、制度化しなくてもよい面はある。)

このように考えてくると、組織において多様性をどこまで認めるか、という問題は、長年の伝統や歴史に培われた企業文化・企業風土をアップデートしつつ、その範囲内で社員に対して最大公約数的安心感を与えることだろうと思います。

社員の多様性をどこまでも認めべきとは思いません。やはりそこには企業ごとに一定の範囲内という制約は外せません。そうでなければ、その企業としての個性が失われることになるからです。社員もそうした制約の根拠を理解することが必要です。それにはやはり、コミュニケーションが肝になってきます。

組織として多様性をどこまで認めるかは、一人でも多くの社員にいかに気持ち良く安心して働く環境を提供していくか、という問題に言い換えられます。それにはまず、トップをはじめとした経営層の思考のアップデート、次に管理職クラスの思考のアップデート、そしてコミュニケーションスキルの向上だと考えます。

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サバサバ系女子

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

東京は桜が開花しましたね。平年より10日早いそうです。

さて、今回はサバサバ系女子について書こうと思います。

いますよね、自称サバサバ女子。

私は今まで何人か出会ってきました。まがい物のサバサバ女子ということで、私は“偽サバサバ女子”、略して“偽サバ”と命名します。

小さなことを気にしなくて大らか?同性同士のお付き合いが苦手で友人は異性ばかり?趣味がアクティブなサバゲーや海釣り?他者のバウンダリー(自他境界)をマルっと無視してズカズカ踏み込んでくる人?

偽サバ女子には特徴があります。

まず、本当にサバサバしている人はわざわざ自分から「私、サバサバしてるから」など言いません(笑)他者にサバサバしていると捉えられようと捉えられまいと、どうでもいいからです。

偽サバは自分の発言や行動で誰かが気を悪くしたり不快になる、傷つけることがあっても反省したり謝ったりしません。

「ほらぁ、私ってサバサバしてるから何でも思ってること言っちゃうの〜(だから悪気ないの、(´∀`*)テヘ)」と、自分が考えるサバサバした性格を免罪符に自己正当化して謝りません。

それは気遣いできないただの無神経な人だということがわからない残念な人なんですけどね。心で静かに合掌してあげてください(笑)

次によくいるのが「私ってサバサバしているから女の子より男友達が多くてー(男友達といるほうがラクでー)」と男友達が多い(モテる?)アピールする場面。

微妙にマウンティングしている感も否めません。このタイプは「映えスポットなんて、そんな女子らしいこと苦手だな〜、SNSやらないしぃ」と言いながら、異性との飲み会はシレッとアップします。

“男性に囲まれてる私”“男友達いっぱい”でモテるんだをマイルドにアピールしたい裏返しですが、なかなかの承認欲求です。

わざわざ男っぽい言葉を使ったり、多少乱暴な行動(飲み物の入ったグラスを適当に置くなど)を取ってみたりします。

整理整頓せず机が散らかっている様子を「私ってサバサバして男っぽいから(だから細かいことは気にしない (´∀`*)テヘ)」と、時間にルーズなことを、ただのいい加減でガサツ、デリカシーがなく下品なだけを“サバサバしてるから”と勘違いで免罪符にしようとしてきます。

勇気のある人は「それ、サバサバじゃなくて、ただガサツなだけじゃないの?」「それ、サバサバじゃなくてズボラでいい加減なだけだよね」と鋭くツッコムと面白いかもしれません。

私も「サバサバって、モノは言いよう、よね〜」と心の声がダダ漏れてしまったことはあります。

思っていることを我慢せず、思ったままに何でも言うのを“サバサバしてる”と勘違いしている人は一定数いますよね。言いたいことを言うなとは思いませんが、いい大人が相手に何の配慮や気遣いもなく、傷つけたり不快になるかもしれないことを考えもせず、ズバズバものを言うのは・・・。

ただのデリカシーのない無神経な人に他なりません。

わざと敢えてそのような言い方をすることは私にもあります。それは、相手が無神経でデリカシーのないバウンダリーオーバーな話し方をしてくる場合に、です。目には目を、歯には歯を、のような感じでしょうか。

「嫌われることを恐れず何でも思ったことを口にする私は裏表のないからサバサバした性格!(カッコいい〜)」とセルフイメージを作り上げる人もいますが・・・。それはただのデリカシーのカケラもない、ただの無神経な人なのです。

本人がどういう意図であれ無意識であれ、周りからは「いちいち否定してくる不愉快な人」「他人に気を遣えない幼稚な人」「話してても面倒な人」「一緒にいても全然楽しくない人」「突っかかってくるから話したくない」と思われているものですが、残念ながら気付けないんですよね・・・。

言いたいことを何でも我慢しなくてはいけない、ではありません。

他者に配慮した話し方ができるほうが素敵な大人ですよ、なのです。本人に悪気はなく、思ったことをそのまま口にする(してる)だけだと思いますが、時々【口撃】になってしまっている人も見かけます。

ズバズバ歯に衣を着せない物言いが「カッコいい」ではなく、他者感情に配慮して言葉を選び、わざわざ他者を不愉快にしないコミュニケーションを取れる人が“カッコいい”のではないでしょうか。

偽サバで評価が下がるのは、とても損なことだと思いますし、わざわざ好かれなくてもわざわざ嫌われるキャラを作り上げる必要もないと考えています。

自分は偽サバになっていないか、一歩退いて自分の全体像を眺めてみるといいかもしれません。

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「〜してあげる」の心理

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

他者に対し不平不満の多い人にはなぜか「〜してあげたのに」「〜してあげてるのに」というワードがよく出てきます。心の声の場合もあるでしょう。

これは自分でも気づいていないところで“見返り”を求めている場合によく見られます。

親切 気遣い 好意 厚意・・・

見返りは必ずしも金銭や返礼品とは限りません。“感謝”という目に見えない、しかし『恩』という厄介な見返り。

「私は〜してあげたのに、彼女は◯◯もしてくれない」
「疲れているだろうと思うからいつも家事をやってるのに、私が具合が悪くても(忙しくしているのに)何もやってくれない」

その考え、ちょっと待ってください。

大切な人、大事にしたい人に対して、なぜ「〜して“あげる”」という意識が生まれてしまうのでしょうか。

それは日々の生活の中で生まれる気持ちの余裕のなさかもしれませんし、やってもらって当たり前、わかってくれるはず、かもしれません。

一度自分とじっくり向き合い、なぜそんな気持ちになってしまうのか考えてみるといいと思います。

最初にあったはずの相手に対しての“感謝”の気持ちが薄くなったり、忘れてしまっていませんか?

自分がやりたくてやっていることであれば「〜してあげた」とは感じません。自分が“勝手に”やっているので見返りがなくても平気です。もちろん「ありがとう」「助かったよ」と感謝の言葉があると気持ちがほっこりしますが。

一緒に過ごす時間が長くなると忘れがちになってしまう“感謝”の気持ちを、出会った頃に立ち返って思い出してみませんか。些細なことも嬉しくて「ありがとう」と思い、伝えていませんでしたか?

口に出すのが恥ずかしい、言わなくてもわかってくれている(はず)・・・そんな照れや見栄、捨てましょう。

「ありがとう」

言われて嫌な気持ちになる人はいません。「ありがとう」の気持ちは人をまろやかにしてくれます。

自分の感情や気持ちを上手に表現することが不得手で不器用な人もいることをわかっていますが、人間関係を円滑に築き持続していくために勇気を出して「ありがとう」を伝えてみませんか?

ただ「感謝してる」←この言い方は感心しません。

「ごめんね」を「悪いと思ってる/済まないと思ってる」という言い方で誤魔化されるくらい後味が悪い感じがしますよね。「ごめんなさい」を謝意を伝えていますが、「悪いと思ってる/済まないと思ってる」は、その人の“気持ち”に過ぎません。これは特に男性に多い傾向にあるように思います(笑)

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解は既に決まっていて強制されるものなのか?

メンタル・イデア・ラボの本城ハルです。

突然ですが、

「私って頭悪いから」「私ってバカだから」

きっと「そんなことないよ/大丈夫だよ」「そんなこと言わないで」を求めているんでしょう・・・わかります。

ですが、毎度毎回あまりにも話に「私って頭悪いから」「私ってバカだから」が出ると、かなり鬱陶しい。なので「そうだね〜」と言ってみました。

案の定「そんなこと言わなくてもいいじゃん!」←いや、先に振ったのはアナタです。

「そう思ってたんだ!ヒドイ!」とキレられました(笑)

だったらそんな振り方するな、と言いたいのです。同じような経験をしたことがある人もいるのではないでしょうか。

要するに、これっぽっちも自分を頭悪いともバカだとも思っていないということですよね。ホントのことだと思って言っていて共感を求めているなら、共感したことに不快になる必要はないはずです。

なぜ「いやぁ、知らなくてお恥ずかしい」「教えてくれてありがと!」ではダメなのでしょうか。

自ら(思ってもみないくせに)自己卑下して、それを他者に否定してもらわないとアイデンティティを保てないなんて、めっちゃくちゃ面倒クサイ人です。

それは確かに誰にでもありますよね。何だかやることすべてが上手くいかなくて、「私ってダメだなー」と思うことも弱音を吐くことも。

でも、他者を使って自己肯定感を上げようとするのはちょっと違うと感じませんか?

仕事であればクライエントに対し「そうですね」とはもちろん言いませんが(そんなことはありませんと否定もしません)、いつもいつも(プライベートの時まで)セラピストモードで生活しているわけではないので正直面倒です。

一種の“察してちゃん”の応用モードな気がします。

「はぁ〜」「う〜ん、」とため息をつきながら「どうしたの?何かあった?」と切り出してもらいたい“察してちゃん”。ツンツンケンケンした態度で「何か怒ってる?」「別に!(察してほしい)」のやり取りと似ていますね。

「ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」

「今不快な気持ちになってるんだけど、話してもいいかな」

察する力は十分ありますが、言葉で伝えましょうよ。

「言わなくてもわかるでしょ」

「言わなくてもわかってほしい」

長い付き合いの中で言わなくてもわかることは当然ありますが、自分以外はパートナーはもちろん親でも子でも“他者”で、自分とは違うものの見方、考え方、受け取り方をするのが当たり前です。

“察してちゃん”は「自分をわかってほしい」気持ちが人一倍強い人種ですが、ジブンガー!の前に自他境界(バウンダリー※)や人間理解に目を向けてもらいたいと思った一件でした。

※バウンダリー:本コラム2022年5月25日2022年5月30日2022年6月5日参照

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